Go Congress紀行

旅編

(2001 US Go Congress 参加報告記)

兵藤 進

[登場人物]−旅の同行者− (AGAランク順)
吉田 嶽彦
高本 正
我妻 正明
兵藤 進  
柴田 啓介
牛島 五郎中国・大連在住
井宮 照雄
我妻 崇明8才、「仁風会」小林泉美門下生
[登場人物] -出会った人々-
Anderson, Paul ニューヨーク在住、元US IBM社員、AGA初代President、四谷の木谷道場に も通って、故木谷礼子さん、大竹九段等木谷門下の棋士と交流がある。
原子 武久   日立市在住、前回DenverでのCongressに参加。Paulから紹介される。
森田      日本棋院職員、Denver大会に参加
兵頭 俊一     神戸在住、囲碁指導員。S. Hyodoで私と間違えられる。いえ、私がS. Hyodo と間違えられる(!?)。Congress事務局は、Strong Hyodo として認識。
牛 飛飛      今年1月、Mike Lushと金沢東栄さんと私と4人、八重洲で初めて会う。アマ 五段、マイケル・レドモンド九段の義妹。
レドモンド、マイケル 日本棋院・棋士九段。今年のUS Go Congressに日本棋院より派遣される。
牛 嫻嫻(NIU XIAN XIAN) 中国棋院・棋士三段 レドモンドの奥さん、飛飛さんの姉
恵美(EMI NIU REDMOND) 8歳
優美(YUMI NIU REDMOND) 5歳
Redmond, None  レドモンド九段のお母さん。アメリカの子供達に囲碁の普及活動を行う。
張 仁義     台湾出身、骨の専門医で、Baltimoreの病院で研修中。快活でよくしゃべる。 本人は碁を打たない。
Lash, Michael 弁護士・連邦政府職員。今年の一月、八重洲の日本棋院で初めて会う。
Shubert, Bill KGSのInternet Go開発の米国側担当者。
Curran, John   Engineer。テニスのお相手、アイルランド系米国人
Curran, Loretta 中国+ポーランド系米国人。子供3人の母親
Arnold, Keith 2001 US Go Congress President, AGA Baltimore支部部長
Zimmerman, Sam 2001 US Go Congress事務局責任者

[プロローグ]

いつ頃からだろうか? Go Congressに参加しよう、と思い始めたのは...。

ヨーロッパでは、Go Congressという、2週間にわたって一日中囲碁を打つ大会がある、と10数年前にPaul Andersonに聞いてから、一度はそのような大会に参加してみたいと思っていた。

Paulの話によると、その当時、参加者はヨーロッパ中から家族で、あるいは一人でテント一つを持って、数百キロ、時には千数百キロもの遠方からやって来て、2週間もの間、毎日午前中、碁を打ち、午後からは家族サービスで近隣の観光に出掛けるという。日本人の感覚では、ちょっと考えられないような大会だ。そのようなGo Congress が米国でも10数年前から開催されるようになった。US Go Congress は、さすがに2週間もかけないが、それでも1週間みっちり囲碁が打てるようになっている。

 昨年、中国旅行にNew YorkのPaul を誘って一緒に旅行した際、彼から来年は Go Congressに参加するよう強く要請された。私はかねがね一度は参加したいものと思っていたのでこの機会に行って見ようと思い、今年一月の囲碁部幹事合宿でCongress参加の意向をみなさんに話して、自分から幹事(海外担当部長)を買ってでた。

三月頃、AGA(American Go Association)からCongressの概要が正式に発表されるのを待って、開催地・日程を確認したところ、場所はペンシルバニア州のヨーク(York)市にあるYork大学で、7月21日(土)から29日(日)の9日間になっていた。最初の予定では、8月4日からになっていたので、航空運賃が夏休みの一番高い時期にあたり全体の旅行費用がかなり高くなるだろうと案じていたが、この日程なら航空料金も少しは安くなるだろうと、胸算用をしながらHISで聞いてみた。案の定、20日前後はすでに夏料金で相当高くなっていた。今年の場合、18日と19日が料金の境で、18日なら数万円安いとのこと、また、DELTA航空が今年New York線を開設して他社よりさらに安く設定していることが分かり、往復11万5千円前後で行けることがわかった。

そして、Congressの費用も宿泊(210$)、食費(150$)、大会参加費(200$)及び最終日のBanquet(20$)を合わせて、〆て580$、日本円で約7万円、航空運賃と合わせて、185,000円。そして、19日から21日までの3日間、York大学にチェック・インするまでオプション旅行をすると、総計23万円くらいでまかなえると判断して、囲碁部報で案内を出した。

[旅の計画]

オプション旅行は、バージニア州を車で約半周する旅を企画した。メリーランド州のボルチモアから、ワシントンDCを通過して、西に向かい、アパラチア山脈のシェナンドー国立公園を経て、バージニア州都リッチモンドから米国建国当時の面影を残すウイリアムスバーグ、そしてチェサピーク湾を渡り、半島を北上してボルチモアまでの約1,000Km以上のドライブ旅行だ。

案内をだしてから約1ヶ月の間に、前年Denverで開催された第16回 US GO Congressに参加された日立市の原子さんに連絡を取ったり、日本棋院の職員でやはり昨年同大会に参加された森田さんに電話で大会の様子を聞いたりして、少しずつ大会の模様が分かってきた。一番びっくりしたのは、一日に一局しか打たない事、それも持ち時間2時間で、秒読みありと言うことだった。いつも、社内や日本棋院で行われる持ち時間40分、時間切れ負け、一日5局の大会になれている我々が、持ち時間2時間の碁で20分か30分で負けてしまったら、後は何をして過ごそうかと心配になった。

 参加者も最初は5〜6名も集まればいい方だろうと思っていた。もっとも、2、3名だったらこの企画は取りやめにしようと考えていたところ、結局、参加者は8名、その内、我妻さんが8歳の息子と一緒に参加することになり、今までの中国や韓国への囲碁旅行とは違った趣の旅行になりそうだと喜んだ。また、牛島さんが中国・大連から参加する旨、連絡してきた。そして、七月初め頃、オプション旅行の話を牛飛飛さんにしたところ、「面白そうね!私も参加したいわ!」と、乗ってきた。レドモンド九段が日本棋院から今回のCongressに派遣され、お姉さんの嫻嫻さんも二人の子供と一緒に招待されているので、「それなら!」と、行く気になったようだ。

[同姓]

 AGAの事務局とe-Mailで2,3回やり取りするうちに、奇妙なことに気が付いた。こちらが何か質問や問い合わせをすると、音沙汰がなかったり、少し間をおいて、「そんなことはすでに知っているだろう」という内容の返事が時々来るようになった。Paulを介して、同じ質問をするうちに、どうも別のS. Hyodoがいて、彼はCongressの常連らしいことが判明。もしかしたら、回答は彼に送ったか、それともそんな常識はすでに知っているだろうと、無視されたのかも知れなかった。

後日、大会会場で事務局責任者のSam Zimmermanに会って自己紹介をしたら、お前がanother Hyodoかと言って笑っていた。大会費用の振込みや、Registration Listの作成等で、このダブルS. Hyodoには事務局は相当混乱をきたしたらしい。

[出発、そしてボルチモア]

 いよいよ出発の18日、成田で全員集合する。いつもながらの楽しいひと時である。我妻さんとは築地で会って以来、10数年ぶりだった。少し太ったようだが、面影は変わらず。お父さんと一緒に息子の崇明くんが居た。井宮さんはいつものリュック・サック一つでお出ましだ。高本さんも愛用のリュックに携帯碁盤しのばせて、早くも一局始めようとしている。柴田さんは千葉の表浜で日焼けした元気な顔を見せてくれる。今回の同行者中一番の高段である吉田さんは飄々と現れた。お互いに挨拶や自己紹介をして、搭乗手続きを済ませ、ゲートに向かう。

 ゲートの前で、早速、一局始まった。私も崇明くんと初めての対局を楽しんだ。そのうち、旅行中のトーナメントの話が出て、帰る日の29日までに、メンバー全員と最低2局打つことにした。井宮さんが記録をしてくれる、ということなので、それならとトーナメントの幹事をお願いすることにした。(このトーナメントは途中で挫折した。理由は至極簡単で、大会期間中イベントが多く、仲間内で碁を打つ時間がまったく無かった為である。)囲碁仲間との旅行ではいつもそうだが、碁を打っていれば機内では全然退屈しない。中国への3〜4時間のフライトでも、New Yorkへの長時間のフライトでも同じだ。

 BWI(Baltimore Washington International)空港に同日の夕方4時ごろ着いて、早速レンタカーを借りる。8名なので車を2台借りることにした。借りるに当たっては日本でクーポン券を購入しておいたので、簡単に手続きは済むだろうと思ったが、これが正反対。担当者がクーポンの扱いを知らないらしく、一向に手続きが終わらない。そのうちに電話で何やら話しては端末にインプットしている。それでもまだうまくいかないとみえて、また電話で話をしている。結局、4,5回電話で確認しながらやっていたが、何とか終わった。1時間くらいしてようやく車が手に入った。柴田さんと小生の追加ドライバーの登録も無事終了した。

 今日の宿はボルチモアのダウンタウンにある、トレモント・プラザ・ホテルを日本から予約しておいた。予約に当たっては、Internetで調べてワシントンDC在住のMichael(Mike) Lashさんに頼んで予約してもらったものだ。一台目の車には、吉田さんが運転して同乗者は柴田さんと井宮さん、もう一台は我妻さんの運転で息子の崇明くと高本さん、そして小生の4人が乗り込む。

吉田さんと柴田さんは日本を出るまでに、BWIからボルチモア市内までの地図を頭に叩き込んで、高速道路の何番に乗って、それから何番に乗り換えればいい、と、詳細にチェックし、また、レンタカーを借りて出発間際も入念に地図を見ているので、先導をお願いすることにした。そして30分くらいで市内に入ったのだが、それからが大変であった。知らない都会で、特定の場所を探すのは並大抵ではないことを改めて痛感した。車を停めて、地図を見ていると親切に道を教えてくれる人がいたが、Nativeの人がNativeのspeedでしゃべられると半分も理解できない。それにここは東海岸、NHKの英語とは少々発音が違う。悪いことに、ダウンタウンではお巡りさんが大勢出ていて、交通規制をしている。当然、 通行できると思っている道が「とうせんぼ」になっていて、余儀なく右折や左折をすると、今、現在何処に居るかが判らなくなってしまう。そうこうしている間に、吉田さんの車を見失い、街の中をぐるぐる回っているうちに、高速道に乗りかけてしまいそうになる。これはいかん、と慌てて高速を降りてダウンタウンに向かっていると、偶然にもホテルのある、St. Paul streetに出た。しめたと思い、その通りを下って行くと、待望のホテルが見えてきた。

 ホテルに着いて、フロントでチェック・インを済ませ、もう一台の人達のことを尋ねたが、まだ到着していない、という。夏時間で午後8時過ぎまで明るいボルチモアの街も、さすがに暗くなってきて、吉田さん達のことが不安になってくる。荷物を部屋に入れてから、すぐホテルの玄関に引き返して外の方を見ていると、20分くらいして1ブロック先の道路から、柴田さんと井宮さんとおぼしき人物が駆け足で、こちらに向かって走ってきた。一瞬、事故でもあったかと思いながら手をあげると、先方も気がついて手を振って駆け寄ってくる。「吉田さんは?」と問い掛けると、来た道を指差して、この先が一方通行で入ってこられないので車で待っているとの事、それを聞いてほっとしながら、ホテルへ来る道を指示した。

[再会]

 実は、私達がホテルに着いて、チェック・インの手続きをしていた時、ちょうど、牛島さんがラフな格好でロビーに下りてきた、牛島さんは大連から一足先にANAでニューヨークに着き、そこから列車(Amtrak)でボルチモアに来ていたのだ。聞くと、ホテルから10分ほどの所にある、Inner Harborに行って、そこで夕立(shower)にあい、びしょぬれになってホテルに戻って来たそうだ。そういえば、市内に入ってから道が濡れていた。

 全員8名揃ったところで、遅い夕食に出掛けた。今回の旅で味わう、アメリカ大陸での最初の食事だった。夜中の12時頃ホテルに戻り、翌日、飛飛さんとワシントンDCのホワイト・ハウス前で彼女をPick Upする約束をしていたので、その確認の為、彼女に電話を入れた。彼女は数日前に日本を立ち、ワシントンDCに滞在して早めの夏休みを楽しんでいた。眠そうな声で電話に出た彼女に、明日、打ち合わせた場所に迎えに行く旨を伝えると、「え、明日ですか?」という。「そう、明日の木曜日午前10時に予定通り迎えに行きますよ。」
と、再度伝えると、金曜日の10時だと思っていたと言う。あれほど、e-Mailで連絡しあっていたのに、意思の疎通をはかるのは難しい。彼女は、「それでは、今から荷物をパッキングしなくちゃ!」といって、翌日10時の約束を改めて確認した。

 昨晩の夕食の時、明日の朝、散歩に行く人は6時にロビーでお会いしましょう、と全員に伝えておいた。朝の散歩は、牛島さんと10年前韓国ソウルに行った時からの習慣だ。6時少し前にロビーに降りて行くとすでに我妻さんと崇明くんが元気そうに待っていた。他の人が来るかと思い、10分くらい待っていたが誰も来ないので、まず、ホテルから見て坂の上にある、Mount Vermonに向かう。ボルチモアは米国建国当時からの都市らしく、古い教会が沢山ある。坂の一番上あたりに記念碑があり、その横には古びた教会があったので、そこで記念の写真を撮った。それから、朝食を食べるためにInner Harborに行くことにして、今度は坂を下ることにした。同じ道を戻るのはつまらないので1ブロック横切ってから、港の方角に向かって歩き出した。どうも、この通りがビジネス街らしい。オフィスらしいビルが立並んでいる。

30分ほど歩いてInner Harborに着いたが、早朝からOpenしている店はなさそうである。道行くご婦人に尋ねたが、やはり肩をすぼめるばかりである。仕方がないので、明かりの点いている店らしき建物を目指して、来た道を戻りかけたがやはりレストランではなかった。ふと見ると、近くに大きくて立派なホテルがある。ここに泊まっているわけではないが、朝食を食べてはいけないことも無かろうと思い、そのホテルのフロントでカフェテリアの場所を聞いてようやく朝食にありつけた。少々高い朝食ではあったが...。

 8時半出発が、配車が遅れて9時頃になった。昨日、2台の車が別れ別れになってしまったので、そのような場合は飛飛さんをPick Upする場所(ホワイト・ハウスとワシントン・モニュメントの間にあるParking Lot)で落ち合うことにして出発した。今日は我々の車に牛島さんが同乗して、高本さんは吉田さんの車に移った。

ワシントンに向かって1時間ほど走ったが、どうも、Navigator(私)の資質に問題があるらしく、行けども行けどもワシントンのダウンタウンに出ない。運転している我妻さんが、先ほどまでワシントンのサインが出ていたが、今はそのサインも見えなくなっているので、もう通り過ぎたのでは、という。そんなことは無いと思いながらも、やはり不安なので、道端に車を停めてもらい近くにいた人に、地図を見せながらWhere are we? と聞くと、案の定、ダウンタウンからはるか南に居る事がわかった。どうも、DCの環状線を南に沿って走り、その環状線を降りて、なお、南に向かって走っていたようだ。私が口を出すとろくなことがないので、我妻さんの運転にまかせて北上した。

30分ほど走ってダウンタウンに入ってきた。目指す、ワシントン・モニュメントが左手に見える。もうすでに約束の10時をとっくに回っている。もうすぐ、ホワイト・ハウスに着くと思っていると、急に車が込んできて、ワシントン・モニュメントの1ブロック手前で全然動かなくなる。よく見ると、デモ隊がデモを始めて、すぐ前の交差点を横断しだした。10分ほど車の中で、デモの様子を見ていたが、一向に途切れそうもない。私は辛抱できなくなって車を降りて走り出した。2〜30メートル走ると、向こうの方で私に気づいた飛飛さんが手を振っている。Mike Lashも居るし、吉田さんや柴田さん高本さん井宮さん達も見えてきた。ようやく、「約束の地」に到達できてほっとする。

飛飛さんの手に分厚い本があった。私に「これ、Mikeからですよ。」と云いながら渡してくれた。見ると、バージニアのガイド・ブックだ。Mikeにはe-mailで、大会の始まる前の3日間バージニアを車で旅をする旨、伝えてあったので、役に立つだろうとこの本を買っておいてくれたのだった。まだ、2回しか日本であっただけなのに、本当に有難いことだ。

 

[旅の始まり]

 さぁて、バージニア一周、約1,000Kmの旅の始まりである!吉田さんと柴田さんがMikeにI−66への行き方を聞いている。(私がこんなことを言う資格はないが) 本当に慎重な人達だ。我が運転手は「ナントカナルサ」と、いった感じでおっとり構えている。私も彼の「カンピューター」に賭けることにした。もう、昨日と今日で実証済みだから。Mikeは一通り説明し終わると、「じゃ、Good Luck!」と云う感じで別れたが、いつの間にか車で戻ってきて、I-66に乗るところまで先導すると言ってくれる。どうも、我々に説明した時、英語が理解できたのか?それとも、地理が理解できたのか?と、(多分、両方)あやぶんで親切にも戻って来てくれたものと見える。またまた、アメリカン・ホスピタリティを有難く思う。

順調に走って、正午頃昼食をとることにした。吉田さんが先導していたので、適当な場所で停めるようにお願いした。やがて前方に看板が見えて、レストランらしき建物が見えてきた。先導車がそこに入っていくので後をついていくと、そこはなんとマクドナルドだ。アメリカまできてハンバーグも食べずに帰るのも何だからと、気をきかせたものか...。

腹が減っては戦が出来ないとばかりにBig Macにくらいついた。それにしても、カージナルスのビッグ・マックは今年ホームランが少ないようだ。怪我でもしたのだろうか?

 

ほどなく、I-66からシェナンドー国立公園に入る、 Front Royalと云う町を通過、一路南に進路をとり、アパラチア山脈の中腹をドライブする。景色の素晴らしい展望台で車を停めて、パノラマに広がる自然の大地を満喫する。アメリカは自然が美しいと聞いていたが本当だ。都会ばかり見ていては、アメリカの良さはわからない。

 1時間ほど運転してルーレイ洞窟(Luray Caverns)に到着した。約1時間の解説付で、鍾乳洞を見学する。綺麗なお嬢さんが所々立ち止まっては説明してくれるのだが、南部なまりが入っているのか英語が良くわからない。なまっていなくても良くわからないのに...。内部は照明が行き届いていて、その光と自然の造形が神秘的だ。あまりにも内部が大きいので、高本さんが「ここは世界で一番大きいのですか?」と質問したら、アメリカで四番目だという。そういえばもっと北の方に、マンモス・ケーブというところがあったなと思い出しながら、日本の秋芳洞は何番目かなと想像した。

[別れ別れ]

 ルーレイ洞窟を後にして、Charlottesvilleに向けて高速道路を東に走っていると、前方の吉田さんの車が心なしか蛇行しだした。我妻さんもそれに気がついたらしく、少し休憩しましょう、と提案したので、次のサービスエリアに入って休んだ。やはり、長途の旅で疲れが出たのだろう。

我妻さんも眠いと言うので、お互いに運転を換わることにした。今度は柴田さんが先導で、私が後をついて行くことにした。しばらく行くと、Charlottesvilleの町に近づいてきた。先導の柴田さんが、今日はこのあたりで宿をとりましょうか、と言う。時計を見ると、まだ、6時前だったので「もう少し行きましょう、Richmondまで行き、そこで探しましょう」と、言って、又、先を急ぐことにした。柴田さんはスピードを上げて走っていく。その内、車が見えなくなったが、この高速を走っていれば会えるだろうと、こちらはゆっくりと運転していった。誰にも言っていないが、なんせ、東京へ転勤になってから15年以上も運転していないのだから...。1時間くらい行くと沿道に、FoodやLodgingの看板を多く見かけるようになった。時間はもう7時だ。まだ明るいが、そろそろ今日の寝ぐらを決めてもいいなと思っていると、丁度、いい感じのホテルの看板が目に入った。咄嗟に、先導の柴田さんもここに行ったに違いないと思えてきて、私もハンドルを右に切り、高速道路を降りて町の方に入って行った。勿論、先導の車がいるわけもなく、しまったと思ったが後の祭りだ。少し行くと、商店が数軒あるモールに出た。隣で気持ちよさそうに寝ていた我妻さんもむっくり起きて心配そうにしている。折角だから、トイレ休憩にしましょう、と皆に言い、私はそこにいた感じのよさそうな年配の方に、Where are we?と尋ねた。そしてI-64 Eastの入り口を聞くと、「今、そこから来たのだろう?」と言う。確かにそうだが、もう一度、同じところに戻りたい旨を告げると、不審そうな顔をする。しかたがないので、かくかくしかじか、間違ってここに来てしまった。仲間はRichmondに向かって車を走らせているので、後を追いたいのだ、と言うと、何とか分かってもらえた。我妻さんが、(任せておけない!)という感じで、「運転をしましょう!」と、いうので運転を変わってRichmondに急いだ。途中、先導車は待っていてくれるかと思ったが、一向にそれらしい車を見かけない。Richmondのダウンタウンに入ったが、これ以上探す方策もないので、先ほど高速を降りたところに、Hiltonと2,3感じの良いホテルがあったので、そこまで戻ることにした。10分ほどで到着し、Hilton Gerden Innにチェック・インすると、直ちにニューヨークのPaulに電話を入れた。車で旅行する前に、何かあったらPaulに電話をするよう、打ち合わせてあったので、吉田さんたちも連絡してくれると思ったからだ。案の定、夕食を終えてホテルに戻り、少ししたら高本さんから電話があった。先導車の面々はRichmondのダウンタウンに宿をとり、夕食を済ませてホテルに戻ったところであった。私のチョンボとは言え、やれやれ、一日目からこれでは先が思いやられる。

 二日目はWilliamsburgのThe Capital(建国当時の「議会」の建物が保存されている)の前で落ち合う約束をして、朝8時30分頃それぞれのホテルを出発した。我妻さんがハンドルを握る。彼はこれ以降運転を変わろうとは一度も言わなかった。2時間ほど快適なドライブをして、10時少し前にWilliamsburgに到着した。約束の10時きっかりにThe capitalの前に行き、4人を待つことにした。ここは建国当時の街並みを、歴史的な建造物と同じように保存しており、The Capitalを中心に400Mくらいの道路沿いに古い建物が並んでいる。ところが待てども待てども4人はやってこないので、街並みに沿って歩くことにした。この旅の初め頃から気がついていたのだが、特にこのWilliamsburgに来て目立つのが、ピンクがかった、赤い花が満開に咲いている。

道を歩いている人に聞いて見ると、Crepe Myrtleというそうだ。そういえば縮緬に似た感じの花びらが夏の日を浴びて咲き競っている。日本でいう「さるすべり」(百日紅)と後で分かったが、日本で見るよりかなり大きな木だ。アメリカは何でも大きいが、これも風土のせいか。

11時頃になって、向こうの方に4人の姿が見えてきた。無事に着いたようだ。また、Paulの世話にならなくて良かった。12時少し前まであっちこっち見学して、道端で地図を見ながら、昼食をどこでとろうかと、皆で相談していると、通りがかりの女性が声を掛けてくれた。「これから、どちらの方へ行くか?」と、聞くから誰かが「Sea food!, Sea food!」と、答えところ(このあたり、まともな会話になっていない!)今度は「昼食の時間は何分くらい取れるか?」と聞くので、「1時間か1時間半くらいは大丈夫」と返事する。それならYork Town (Williamsburgから15マイルほど東) に素晴らしいレストランがあるからと、行き方を詳しく教えてくれた。少し寄り道になるが、急ぐ旅でもないので行って見ましょうか、と皆で相談して出掛けた。いわれたように進んでいくと、すぐ迷路のようになっていて、少し不安になってきたが、我が運転手のカンピューターに頼って行くしかないと思っていると、Parkwayのような素晴らしく綺麗な道路に出た。左手に川が見える。地図で見ると、York Riverだ。時速60マイルで10分くらい走ると、橋が見えてきた。あぁ、あの橋を渡ればすぐだと、安堵した。

[ポーツマス]

 そのレストランは小さな港のすぐ横にあり、港には大小さまざまなヨットがもやってある。レストランの中は観光旅行か、または夫婦で食事に来た中年の人々で満席に近い。特にこのあたりはcrab(カニ)が美味しいと聞いていたので、とにかくカニの何とかと云うのを色々オーダーした。

カニの身をコロッケのように揚げたのがいたく美味であった。食事が終わると、チェサピーク湾を渡る前に、ポーツマスに立ち寄ることを提案した。ご存知のように、ポーツマスは日露戦争後の講和条約締結の舞台となった町で、大方の日本人には旧知のことである。そんな歴史的な町に行って、実際に会議が行われた建物を見、その使われたテーブルや椅子が展示してあれば見てみたいと思ったからだ。ポーツマスはチェサピーク湾入り口のすぐ南にある。ポーツマスのビジターセンターに行って、件の日露講和条約会議が開催された場所が残っていたら、見学したい旨を伝えると、案内係の女性は少し考えていたが、良くわからないと言う。東洋の小国日本から、100年も前に行われた会議場を訪ねて8人もが真剣な様子で聞いているのには、少々面食らったのかもしれない。あっちこっち、電話で聞いてくれたが良くわからない。そのうち、図書館に電話をしてくれて、直接話をしてみたら、というので電話で用件を伝えた。直接図書館に来てくれれば担当者から話が出来るかも知れない、という。そういえば、先ほどこのビジターセンターに歩いて来る途中、図書館があったので、車に戻る帰り道なので立ち寄ることにした。

図書館へ行くと2,3人の館員が分厚い本を広げて調べてくれていた。そのうちの一人が、どうもこの町ではなさそうだと言う。それでもポーツマスは日本人にとっては比較的有名な名前なので間違えるはずは無いと思っていると、もう一人の館員がパソコンのディスプレイを見ながら、それはニューハンプシャーのポーツマスではないかと言う。別の所にもポーツマスがあったとは!それは約1000kmも北のボストンに近いところであった。知らないと言うことは、なんと無駄の多いことか!まあ、これも旅の楽しさでもあるのだが...。

 チェサピーク湾に架かる橋を渡って、一路北に進路をとった。橋の中ほどに、展望台があり、そこから大西洋が一望できる。大西洋をこのように眺めるのは初めてのことだ。さあ、もう4時だ。今日の寝ぐらを見つけなくては!1時間ほど走ったが、モーテルのような宿泊場所がない。この辺りは、よほど田舎だ。たまにあるモーテルに車を停めて、空き室を尋ねると、ほとんど満室だ。我々9人なので、最低3室は必要だ。相当、走って何軒か無駄な努力をした後、だんだん薄暗くなってきたので皆と相談すると、吉田さんたちはボルチモアまで直接行くという。「だって、ボルチモアまで、まだ、4〜5時間もかかり、着くのが夜中になるよ」というと、それでも良いという。余り無茶に走って事故を起こしてもいけないと思い、引き止めたが無駄であった。「それでは別々に行きましょう。事故だけは気をつけて。」と言って別れた。明日の朝には、Paulのところに電話を入れてもらうようお願いした。これからは、5人の部屋を探せばいいので、少々条件は緩和されたが、それでも中々見つからない。吉田さんたちと別れてから、3回目の飛び込みでようやく2室空いているモーテルが見つかった。もう9時近くになっていた。

彼らはまだボルチモアを目指して走っているのだろうか? モーテルに隣接するレストランで遅い食事を摂った。実は、ここまで来る途中にトマト畑があり、飛飛さんが「あれ、取って!」というので二つばかり失敬したトマトがあったので、それをレストランのウエーターに頼んで切ってもらって5人で分けて食べた。新鮮で美味しかった。(おことわり:トマト泥棒をしたのは、私の意志ではなく、飛飛さんの命令です)

[York目指して]

三日目の朝、7時に朝食をし、すぐ出発する。今日は半島を北上し、アナポリス経由目的地のペンシルバニア州ヨークまで突っ走るつもりだ。途中、もう一台の安否が気になったので、ニューヨークのPaulのところに電話をするが、オペレータが出て、5ドル何がしかコインを入れろと言う。5ドルをクオーターで入れるとすると、それだけでも20枚も必要だ。とてもそんなに持っていないのであきらめた。まあ、無事でいてくれるだろうと思いながら...。20分くらい走ったところで、半島では比較的大きな町、サリスベリーに近づいてきた。ちょうど、その町の手前に来たとき、「ECONO LODGE」と言うモーテルの看板が見えて来た。我妻さんがその看板を指差しながら、「きっと、もう一台はここに泊まったはずです。昨晩はボルチモアまで行ってませんよ。」という。私もそうあって欲しいと思った。あのままボルチモアまで走っていたら、事故を起こさないとも限らない。「あの車には高本さんが乗っているから大丈夫でしょう。あの人は冷静だから、途中でモーテルを探すよう、提案すると思いますから...。」と、答えて自分を納得させようとした。後で分かったことだが、まさしく我妻さんが指摘した、そのモーテルに泊まっていたそうだ。我々の泊まった所からそんなに離れていなかったことになる。

 サリスベリーの町を通過し、なお、北に向かって車を走らせていると、所々で農産物を売っている小屋がある。日本でも良く見かけるような、季節の果物や、畑で獲れた野菜類を売る店だ。この辺りでは何を売っているのだろうか?興味の趣くまま一軒の店の前で停めて、店頭を眺めてみる。大きなスイカがある。丸いのやラグビーボールの何倍もありそうな楕円形をしたのもある。

すべて、でっかい。アメリカは何でも大きいがスイカも大きい。そう言えば、あの店の女主人も大きかった。値段を聞くと、3ドル50セントであった。店のおかみさんに一番おいしい(?)のを選んでもらって、抱えた。足がふらつきそうになった。「冷やしたスイカを皆に食べさせてあげたら、きっと喜ぶだろうな、それにしても、このでっかいスイカをどのように冷やそうか?冷えていないスイカほど、まずいものはないからな」と、考えながらスイカを車のトランクに押し込んだ。さらに北上すると、湖のような、河のような水辺が見えて来た。チェサピーク湾から流れ込む「入り江」が、湾の入り口から200Kmほど北にまで入り込んでいる。大きな橋を渡ると、もうすぐアナポリスの町だ。アナポリスを横目で見ながら、北へ北へと進む。これも後で聞いた話だが、ちょうどこの頃、吉田さん達一行はアナポリスの港で遊覧船に乗って観光していたようだ。

アナポリスから4〜50Kmほど北に、ボルチモアがある。ここまで来れば、ヨークまで2時間たらずだ。我が運転手はわき目もふらず、快調に飛ばす。牛島さんが、マホービンの中蓋をボルチモアのホテルに忘れたのを思い出して、3日前に泊まった、ボルチモアのホテルに寄る事にした。これで、きっちり円を描くように一周したことになる。車のメーターは約700マイル(約1,100Km)走行を示していた。

 ―――「旅編」終わり―――