ウクライナ日記 第1回現地調査(平成9年9月24日―10月18日)

平成9年9月24日(水)

初めてのヨーロッパ旅行、初めてのビジネスクラスでのフライト、新鮮な感動に胸をときめかせて成田へ向かう。
13:00 成田発 JAL407便 時差が7時間あるのでフランクフルト到着は18:00で 11時間30分のフライト 同行の神津氏は海外旅行慣れしており、氏にすっかり頼れるので不安はない。
佐藤氏は私以上に海外旅行は久しぶりとのこと。
早速ディジタルカメラで思い出となる写真をとる。

予定通りフランクフルトマイン空港に到着、大きな空港である。
JALが用意してくれたストップオーバーの一泊はシェラトンホテル。
空港の前である。
初めて欧州の地を踏むのだから街まで出たい。
しかし余り最初から欲張ってもいけない、 ここはドイツ語の国である、前以って訪ねたい所を調査してきたわけでもないのである。
神津氏もホテルで休憩したいということで、街まで出るのは断念した。
65ドイツマルク(約4000円)の夕食券がついておりMAXWELL BISTRO レストランに入り、ビール・スモークサーモン・魚料理・ソーセージを食べた。
特別旨いとは思わなかったが、不味くもなかった。
何せ、ビジネスクラスで贅沢に飲み食いしてきたので、もう水一杯でも良かったほどだから。
ホテルは一流で広く、清潔であった。

平成9年9月25日(木)

6時起床、昨夜と同じレストランで朝食、ドイツ料理のバイキング。
35DM PCIから頼まれた日本酒のおみやげは成田で購入、しかし個人的おみやげが何もないのでは寂しいので、フランクフルト空港でソーセージ・チーズ・クッキーなど買い物してルフトハンザ航空に乗り込んだ。
9:30発のルフトハンザ3250便いよいよウクライナのキエフに向かう。
乗客に日本人はさすがにいない。
佐藤氏・神津氏と私だけ後はほとんどすべて西洋人、一部韓国人やユダヤ人がいた程度であった。
所要2時間30分の短いフライトだが、ちゃんと機内食は出る。
これがドイツ料理の典型なのであろう。
しかし私には旨いとは思えない、しかし、今から行くウクライナではこれほど旨いものはそう食えないのではなかろうかと考え、ほぼ全て平らげた。
フランクフルトとキエフの間は時差1時間、キエフの13:00に予定通りキエフ ボリスポリ空港に到着。
持参外貨申請書の記入や、ビザが必要なことなど、入国手続きは簡単でない。
空港でのカート利用は有料で早くもウクライナ通貨であるグリブナを必要とし、1000ドルを両替し1840グリブナを得た。
グリブナとは銀のかけらという意味だそうである。
因みに1グリブナは55円。

税関を出ると出迎えの人達でごった返しである。
PCIからアイルランドからの一行も一緒に出迎えると聞いていたので、そんなに不安はなかった。
しかし、こうしてロシア人・ウクライナ人の集団に身を置くと果てしなく遠くの国に来た実感がある。
そしてまたどんよりと曇り今にも雨が降りそうな天候で、非常に寒い。
出迎えはどうなっているのか。

待つこと30分ようやくPCI井坂氏の顔が見えた。
隣には若い超美人が付き添っている。
アイルランドからの一行はまだ時間がかかるとのことで、コーヒーショップで待つことになった。
この美しい女性は今年大学を卒業したばかり、PCIウクライナオフィスの秘書として雇ったとのこと、英語も堪能。
名前はアンナという。
寒い中コーヒーを頼むと何と小さなカップで全然ぬくもらない。
こちらでコーヒーを頼むと通常エスプレッソで量が少ないものだそうだ。
そこで紅茶を頼みやっと暖かくなった。

ロンドンからのアイルランドの一行も到着、Peter Roche,Daniel Davis,Peter Williams,Fintan Slyeの4人。
早速4駆のワゴンでホテルヘ向かう。
北海道をドライブしているような真っ直ぐな道路、ポプラの木、並木の向こうに見え隠れする畑、所々に立つ建物、単調な景色の中走ること1時間。

視界が突然開けた。
広いゆったり流れるドニエプル河に出た。
ウクライナの中央部を黒海まで流れる大河である。
この河にかかる橋を渡るとキエフ市内である。

トロリーバス、路面電車が走っている、バスもタクシーも走っている。
建物は殆ど4・5階建、レンガ造りで派手な色ではないが、カラフルで美しい街並みである。
目指すルースホテルは小高い丘の上に立つ18階建てのコンクリート造りで堂々としている。
チェックインを済ませ1224ルームに落ち着く。
部屋は狭いが調度品も整っており、風呂もある。
キエフの街並みが見渡せ、見晴らし良好である。
程なく荷物も無事到着。
ホテルのレベル3つ星で、このルースの更に上に位置するキエフスカヤが4つ星でキエフで最高級のホテルだそうである。

一休みの後、PCIが歓迎夕食会を開いてくれる中華レストランへ車で出かけた。
東方飯店、後で分かったのだが、ドニエプル河の川沿いの道路1つ隔てた所だったようである。
ギネスビール、野菜中心の中華料理をとり9時30頃ホテルへ戻った。
貴重品をセーフティボックスに預ける、1日当たり2グリブナで有料だが、安全第一と思う。
日本とは6時間の時差、日本は深夜である、明朝電話しよう。
23時就寝

 平成9年9月26日(金)

7時起床 ホテルは朝食つきで136US$ 約17000円である。
時差の関係で真夜中の4時頃一度目が覚めたが、また眠ったようだ。
自宅へ国際電話、ホテルの部屋の電話番号と無事着いたことを妻に伝えた。
興味深い朝食へ向かった。
広い2階のレストランでバイキングになっている。
にんじん、塩けのきいたキャベツ、トマト、きゅうり、紫色の野菜など野菜の種類はかなりある。
ソーセージ、お粗末なハムもある。
パンがライ麦パンでパサパサして旨くない。
ゆで卵が旨かった。
まあ、自分の好きなものがとれるので、何とか凌げそうである。
8時20分に出迎えの車が来る。
ウクライナでの仕事の第1日目の始まりである。
市内をドライブ、途中赤い塀に囲まれたキエフ大学とキエフ鉄道駅を通った。
20分でオフィスに着いた。
住所は27 Kominterna Apt 510 50平方メートルの新たに改装された部屋である。

プロジェクトメンバーが続々と集まってくる。
日本人はPCIの津村、井坂の二人、 MRIの神津氏、それに私達NSDの佐藤、本の二人で、計5名、アイルランドからESBのP.Roche、D.Davis、F.Slyeの三人、P.Williamsは聞いてみると、英国の会計士であることが分かった。
ウクライナ側の人達はPCIがローカルスタッフとして雇い入れたAnatoly TsidulkinはPCI津村プロジェクトマネジャーの通訳である。
随分年配の人である。
もう1人のスタッフはVictor Potsnikovといい、大学教授を辞めてこのプロジェクトに入ったそうである。
昨日出迎えてくれた美人秘書はAnna Srepanenko、PCIは更に三人のドライバーを雇い入れている。
若いVitally,とDomitoryそれに年配のGeorgeである。
朝のメンバー紹介が終わった。
昼食は近所のKafeでソーセージとコーラをとった。
こうして国際プロジェクトの幕が切って落とされた。
午後は当プロジェクトの現地側のカウンターパートであるTarasenko氏にメンバー紹介に行くという。
氏はウクライナ電力省のEngineering&Informaticsの部長とのこと。
同じ建物の3階にオフィスがある。
PCIのプロジェクトオフィスは氏から提供されたもので、5月から内装を開始して7月にPCIオフィスとして立ち上げたのだそうである。
Tarasenko氏は物静かな、エリツインによく似た風貌で貫禄があった。
さすがにオフィスはPCIより立派で机の上にはPCも備えられており、入り口にはちゃんと女性秘書も専属でついている。
日本の部長より待遇の上でははるかに偉いようである。
まだPCIとも親近感を持っている様子は伺えない。
よろしくといった程度で何の説明もなかった。

5階のオフィスに戻った。
4時からアイルランドから来たF.Slyeに電力卸市場システムの説明してもらうことになった。
彼は我々の中では最も若いようである。
ソフトウエアパッケージの専門家として当プロジェクトに参加している。
アイルランド電力のソフトウエアの海外展開を図るESBIに勤務している。
3時頃日本語通訳が二人加わった。
1人は年配の男性でKornirov氏、もう1人は若い可憐な女性でJulia、私達はMarket Operationを担当するのだが、通訳はKornilovが当たる。
JuliaはMRIグループの担当である。
F.Slyeは手短に電力卸市場システムに適合するソフトウエアパッケイジがあると説明した。
価格は5億円位という。
ウクライナには高すぎてどうしようもないというのが今日の結論。
さてウクライナの我々の卸システムはどうなるのか。
? 仕事は終わり、ビールパーティとなった。
日本センターの宮島代表が通訳つきで参加された。
宮島氏はPCIのこのオフィスの立ち上げが極めて短期間にてきぱきとできたことに対し驚きと称賛の意を表された。
この国では少なくとも半年はかかると予想していたそうである。
私共がこうして快適に仕事できる環境を整えてくれているPCIの二人の努力には頭が下がる。
人材、資材よく整えたものだ。

人件費の安いウクライナでは、このような仕事は垂涎の的だそうである。
確実に収入が得られ、しかも高給で優遇されるのであろう。
70人の応募の中から選抜したそうである。
ビールパーティを終え、ホテルに戻り夕食である。
生憎ボルシチがなく、代りのスープ、 オムレツ、と白ワインで簡単に済ませた。
もうビールパーティで半ば腹一杯だったからである。
カタコトの英語で何とか楽しく夕食も過ごせた。
まだ寝るのには早いので、ロビーに降りて、絵はがきとキエフ市内地図を購入、酔いの元気も手伝って日本の親戚に7枚絵はがきを書いた。
10グリブナ 一風呂浴びて床に就く24時

平成9年9月28日(土)

ホテルでのバイキング朝食に始まった最初の休日。
牛乳が日本のものより濃く旨く感じた。
野菜は新鮮さが今一でパンもパサパサだが、充分な量食べた。
勿論食後のコーヒーも宿泊費に含まれていると思うとつい慾が出る。
午前中は佐藤氏と仕事をどう進めるか2時間ばかり話し合った。
途中昨日頼んでおいたコルニーロフ氏から電話が入り、明日の碁の仲間の集まる場所の連絡が入った。
ウクライナ囲碁協会長のアルカーディア氏からも場所の確認電話が入った。
さてその場所まで確実に行けるかどうかが問題である。

今日はキエフ市内観光である。
外人4人、日本人3人計7人がワゴン車で観光する。
12時ホテルに迎えの車が来た。
まず、キエフの至宝、世界遺産になっているペチャルスカ修道院の見物、地下に掘られたところに昔の高僧がミイラで安置されていることで有名である。
私はこの大寺院の建つ位置が気に入った、ドニエプル河の河畔に建ち幾つもの塔がバランス良く配置されている景観が実に情緒的で美しい。
何枚もデジカメに収めた。
入場料5グリブナ、英語のガイド料7人で45グリブナ、内部の写真撮影は禁じられている。
ミイラは地下室で暗く、ローソクを燈して見物するのだが、いささか気味が悪かった。
次は、ウクライナ発祥の基になった要塞であるボラータを見物、小さくて、頑丈な砦である。
入場料1グリブナ。
周囲は何もないので、ある種の造形の感じしかない。
午後3時半にはホテルへ戻り、レストランで軽い昼食ボルシチを食べた。
日本流にいえば具沢山スープで塩辛く、余り旨いものではない。
ウクライナはすべて塩味と聞いて納得せざるを得なかった。
夕食はPCIアパートで全員が集まってパーティ。
キエフでもこんなに食料が豊富かと目を疑いたくなるようなスーパーマーケットで買い物をしてアパートに乗り込んだ。
スーパーは外人向けで西欧の輸入品を扱っていて現地の人は高くて手が出せないそうである。
食卓に並んだのは、フィンランドのアブソリュートウォッカ、アイルランドからの手みやげのウイスキー、私がフランクフルトから買ってきたサラミソーセージやチーズ、とんかつ、ハム、トマト、キュウリ、皆高級品ばかりで旨いものばかりであった。
ホテルへ戻り、明日ウクライナ囲碁協会のアルカーディア氏に会うため車をホテルに手配してもらった。
まだ寝るのに早いとのこと、アイルランド側からバーで飲もうと誘われ水割り1杯ごちそうになり、23時床に就く。

平成9年9月28日(日)

朝7時起床、天気は曇り、どうも雨がふりそうな予感。
自宅と若生氏に国際電話。
ミネラルウォーター購入 ホテルは高い6グリブナ 10時にアルカーディア氏に電話、ホテルで手配した車で14時に着くように行く旨を伝えた。
後はドライバー任せである。
Borshenivskaya st.apt 152Aへ出発、佐藤氏は碁を全然やらないのに、付合わせてしまった。
1人で初めてのところへはとても危険である。
彼はそんなにまでして碁をしなければならないのかと不思議に思っているに違いない。
行く先はアパートなのでドライバーも確信は持てなかったと見えて容易には探せなかった。
大きな通りに面していないからである。
住所を頼りに大通りから少し路地を入るとアパートの建物の前で2・3人出迎えてくれていた。
一安心し、ドライバーに20グリブナ払って車を降りた。
当地では破格の値段であろうが、安全と今後のことを考え、そう判断した。
自己紹介し、アパートの1室に入った。
あばら家である。
老若約10人くらいが碁盤を挟んで向き合っている。
すでに対局している人達もいる。
2年前小松八段が訪問したことからウクライナ囲碁協会を紹介してもらったこと、小松八段には3子で教わっていることなど、カタコトの英語で話し、すぐにうちとけた。

早速、アルカーディア氏が私との手合わせを申し出た。
勿論、おみやげも渡した。
小松先生から英語の碁の本がおみやげとして喜ばれると聞いていたので、碁の本と黒棒の菓子やたばこなど皆さんで楽しんでくれるようお願いした。
対局は私の白番となり、終始優勢に打ち進め、中押し勝ちとなった。
私が強い打ち手と判断したのであろう、私を含めて6人でリーグ戦をやるという提案が出された。
今回4週間滞在するので、三回の週末がある。
土曜、日曜に定期的に集まっているそうである。
参加料5グリブナを支払い、1回戦の相手は若者であった。
中国流布石が見事に成功し、中押し勝ち、幸先良く1勝を挙げた。
今日の対局は二局で終わり。

次が楽しみである。
この囲碁の集まりの世話役みたいな人はプリューセシ ユーリさんで40代の人で、昨年ウクライナ代表で札幌のアマ世界選手権大会に参加したそうである。
かなり強そうである。
途中、通訳のコルニーロフさんもかけつけてこられ、しきりに、ビデオ撮影されていた。
氏は初段位打つそうであるが、今日は対局されなかった。
私が無事、 ウクライナで碁を打てたことに心から喜んでおられた。
プリューセシ氏から、時間があれば、手短に1局手合わせしたいと申し出があり、望むところと3局目を対局、やはり相手は強く随分粘ったが、終始押され気味で投了、1敗を喫してしまった。

帰りの車が手配してないので、問題となったが、すぐに、ユーリさんという方が「息子に送らせようと」と申し出られ、ユーリさんの自宅まで佐藤さんも同行し、事無きを得た。
実に囲碁仲間はすぐに友達になれる。
7時ごろホテルに戻り、夕食をとろうとしているところへ電話が鳴る。
たどたどしい日本語である。
小松先生から聞いていたティシェンコ氏である。
日本語の話せる囲碁愛好家がいると聞いていた。
コルニーロフさんが連絡してくれたそうである。
わざわざホテルまで出向いてくれた。
奥さんかお母さんかはっきりしなかったが、病気だそうで、余り家を空けられないらしい。
しかし、遠来の客に是非会いたいと訪ねてこられた。
囲碁談義に花を咲かせ、早速、手合わせしたいとの申し出、しかし肝心の碁盤を持ちあわせていない。
13路盤しかないが、どうかと聞くとそれでよいとのこと、相手4子の対局でも私の大勝、碁は余り強くないそうである。
しかし、子供への指導、 普及に熱心な方で、碁に現れる形を折り紙で表現されており、敬服すべき人だと思った。

ウクライナで初めての土・日の休日もこれで終わり、念願達成、大きな喜びに浸り、24時就寝。

平成9年9月29日(月)

9時ホテル出発、 NERCとの打ち合わせが急遽セットされオフィスと同じNDCアネックスビル7階を訪ねた。
ウクライナ電力セクターIS/IT現状調査の始まりである。
責任者のシモネンコ氏は不在、IT担当という3名にインタビュー開始、日本語通訳コルニーロフ氏も同行、日本で準備してきたITサーベイを説明し、この資料をフィルインしたいと申し出るが、すいすいとは事は運ばない。
いちいち即座に答えられるほど状況把握できていないようである。
しかし、NERCのAnnual Reportを入手することができた。
オフィスでざっと目を通すとITについて触れられている。
NERCは外部からの要求に応じて各種のデータを出す。
定常レポートはこのAnnualReportのみである。
NDCからはNERCにLotus123によるBidデータ、SMP,PIPなど定常的に報告を受けるとのこと。
私達が必要の都度、通訳を使って良いと津村氏からいわれていたので、明日もコルニーロフ氏に出勤するよう指示した。
しかし、津村氏から明日は不要と拒否された。
コルニロフ氏の給料は日給制で高いのだそうだ。
コルニーロフ氏の指示は自分で出すとのこと、些細なことだが、早くもトラブルを起こしてしまった。
やむなくコルニーロフ氏に電話を入れ、丁重に明日の勤務は不要であることを伝えた。
慣れないことでもあり、このようなトラブルは今後も起こるであろう。
明日佐藤氏がCenterenergoを訪問するが、女性のJuliaを使うことになった。
昼食は同じビルの1階、社員食堂でとった、スープ・パン・サラダ・コーヒー4品で2グリブナと非常に安い。
お盆、食器などお粗末の限りである。
私は終戦後の窮乏時代の経験がある、尤も子供時分の一時期だが、現代の日本の若者はおそらくここで食事をとることはできないのではないか。
それほど、衛生上、内容ともお粗末である。
午後はNDCの幹部の1人、シドレンコ氏との会合、氏はマフィアのドンのようながっしりした体格で、顔も大きく浅黒く物凄い貫禄である。
PCIが現状調査の一環でNDC中央給電指令所の見学を申し入れたのであろう。
開口一番クレームである、「私共は西側コンサルタントとの対応に困窮している、時間ばかりとられる割に得るところは少ない、日本のコンサルタントはそのようなことがないように期待する。
」迫力満点であった。
そして中央給電指令所を案内してくれた。
私は日本の中央給電指令所なる近代的なこのような施設を見たことはないが、原子力発電所のMIMICは見ている。
大きな壁一面にウクライナ全土に渡る電力系統図が出ており、2台の制御台で系統制御している。
送電線の太さや、周波数がパネル上に表示されている。
相当に古そうである。
その後、シドレンコ氏のオフィスに案内され、SCADAシステムを実演してもらった。
WindowのNetscapeで系統運用の変わり行く各種データを見学できた。
日本語通訳はいるものの、ロシア語・英語・日本語が入り混じり私自身の英語の聞き取り能力も悪く、どうしても、英語中心になり半分以上は聞き取れない。
議事録は申し訳ないが、F.Slyeに頼んだ。
夕方8時まで残業し、井坂さんのエスコートで中華料理屋に行った。
例の東方飯店である。
ホテルに戻り、今日の状況を整理したので、今日はすっかり疲れてしまった。

平成9年9月30日(火)

佐藤氏はCenterenergoのIT Survey のヒアリングに赴いたが、私はオフィスにいて調査項目の英訳に取り組んだ。
日本語で作成してきたが、ロシア語にするには、一旦英語を経由しなければならない。
昨日のNERC調査の議事録をSlyeに頼んでおいたのが出来上がってきた、私が把握した倍以上の内容を網羅しており、また、英語力の弱さを痛感してしまった。
しかし、議事録について校正すべきところはすべてSlyeと話し合えたので納得のいくものとして提出できる。
Centerenergoを訪問した人達は佐藤氏をはじめ1時間で戻ってきた。
Tarasenkoからの指示が徹底してなくて出直しになったそうだ。
私はTarasenkoが任命したE&Iカウンターパートのメンバーと相談するため、IT調査項目を見直し英訳の作業を進めた。
ルースホテルでの夕食に飽いてきた、上のホテルキエフスカヤのレストランに出かけた。
高級である。
ルースの倍の値段である。
1人80グリブナ

平成9年10月1日(水)

朝早く、9:30にTarasenkoと今後の日程(Itinerary)の相談をすることになった。
どれだけの調査がアレンジできることやら、早速、E&IのTarasenkoの部門が今日の午後、調査に応じてくれることになった。
1つはE&Iが管理する電力セクターのテレコムに関するサーベイ、Victorとの打ち合わせ。
次はSAP R3グループ リーダー 女性リーダーであった。
電力セクターにおけるSAP R3の導入状況を聞いた。
DBはInformix, Financial業務への適用を図る。
しかし、目標は明確でなく、期限も切られていないそうだ。
井坂氏がNDC入館用に顔写真が必要とのことで市内の写真屋に出かけた。
市内の中心街で独立広場やチャイコフスキー音楽堂を通りかかった。
一度ゆっくり見物したいものである。
この辺りはロシアのシャンゼリゼと呼ばれているそうである。
夕食後9:45キックオフのサッカー ヨーロッパリーグがホテル側近のスタジアムで始まった。
テレビ放送を見ながら、生の喚声を聞きながら観戦した。
観衆10万人が喚声をあげ物凄い迫力だった。
試合はキエフ対イングランド、前半はキエフが2−0逆に後半はイングランドが2−0で引き分けた。
因みに入場料は10グリブナとのこと。

平成9年10月2日(木)

今日は1日中、仕事はMFA(Market Fund Administration)のスタディであった。
また英語が聞き取れず疲れてしまった。
F.Slyeが活発に質問し、リードしてくれる、彼のお蔭で我々の理解も増す。
しかし、どうしても英語についていけなくなる。
通訳のコルニーロフ氏も英語通訳でないから少し能率が落ちるとこぼしていた。
来週はキエフを離れてVinnitsaへ行くことが決まった。
荷物を分けて持っていくのは大変だが、地方都市を訪ねるのは楽しい。
MRIの宮崎氏が1週間遅れで現地入り、津村氏が中華料理で歓迎、我々もお相伴に与かった。
今日は僅か1グリブナしか使わなかった。
グループごとにWorkScopeをまとめる宿題が出た。
明日発表しなければならない。
また英語のプレッシャーがかかる。
思い切ってやるだけ。
ホテルへ帰ってまとめると、佐藤氏が早速ワープロしてくれた。
MFAについてもパイロットプロジェクトの候補にしておこう。
明日の発表も少し自信がついた。

平成9年10月3日(金)

キエフに適応し始めた。
目覚めると7時20分充分睡眠がとれた。
午前中は来週ビニツアに行くための準備をした。
South West RDC とVinnitsa OblenergoのIS/IT Survey資料を整えた。
午後はドニエプロ水力発電会社訪問だが、私はオフィスに残った。
津村氏がいろいろと要求を出す。
その対応に追われた。
6時に皆戻ってきた、それからWorkScopeの会議。
英・露・日3ケ国12名の会議、とりしきる津村氏はパイロットの候補が絞りきれないものだから、少し苛立っているようだ。
アイルランドのESBIグループが日本人はUtilityの経験があるのかといぶかっているそうである。
MRIの人達を含めて、勿論私を含めて自由に英語が話せないので議論にならない。
やはり、国際プロジェクトに参加するには英語が重要である。
誤った認識が外人の間に広まると厄介なことになる。
かといって、外人連中を説得できるほど英語が堪能ではない。
何とかミーティングも終わり、来週のビニッツア行きの指示、ルースホテルは一旦引き払うこと、朝7時半車3台で出発すること、3−4時間かかること、ビニッツアのホテルは粗末で飲料水がないことなど。
いつも通りのホテルレストランでの夕食、豚肉料理にはしょうゆが合うので、外人にも提供した。
彼らもしょうゆがここの肉料理には合うという。
日本で準備してきたプロセスモデルに、昨日聞いたMFAの部分を追加、今日F.Slyeと話し合ったSettlementの範囲を拡大して修正した。
この図を津村氏が大いに活用してくれるので、私もプロジェクトに貢献できているような気がしている

平成9年10月4日(土)

待望の休日、12:30囲碁仲間がホテルまで迎えに来てくれる。
誰が車で来るのだろうか? 昼食もとらずにロビーで待った。
5分遅れで何とウクライナチャンピオンのプリューセシが1人で来てくれた。
車かと思ったら電車(トラム)で3駅だからトラムで行こうという。
ホテルから坂を下ること5分、2両編成の路面電車に乗った。
彼は家から1時間以上かかるという、彼の親切と努力に感謝したが、何の手土産も渡せない。
次回来るときに磁石碁盤を贈ると約束した。
彼は、私のキエフ滞在中、何でも困ったことがあれば、相談してくれという、ありがたい話である。
路面電車の駅間の間隔は日本の約2倍、約15分、今日の会場である青少年プラザの停留所でトラムを降りた。
料金は30コペイカだから日本円の20円というところ。
青少年宮は3階建ての平べったい大きな建物でキエフの青少年が文化や勉強を深める公共施設である。
彼は入り口に貼られた講座案内を指差してちゃんと囲碁講座が載っているでしょうとカタコトの英語で説明してくれた。
2階の一室に案内されると、もう彼の教え子という若者が待っていた。
319号室は毎週土曜日囲碁講座のために使用許可を得ているとのこと、無料だそうである。
机の上はチェス盤がえがかれており、4、5人の子供たちがチェスを始めていた。
碁はまだほんの限られた人しかしないのであろう、大人の参加者の中に自分の碁道具をカバンに入れて持参する人もいる。
プリューセシ氏はキエフの囲碁史である記録集アルバム2冊を見せてくれた。
ウクライナでは今までに3度日本から囲碁指導に来ており、小松先生は一昨年来られた。
モスクワで指導する関西棋院橋本昌二 九段の写真や、彼がアルカーディア氏と対局したウクライナ国内の決勝戦の写真など興味深く拝見した。

先週の日曜日にホテルを訪ねてくれたティシェンコ氏が子供達の囲碁入門講座を担当していること、彼がその後の上達講座を担当していることなど説明を受けた。
彼は青少年宮で週3回教え、学校の放課後にも1クラス囲碁講座を受け持っている。
囲碁指導が彼の職業なのである。
対局は先週からのリーグ戦の続きを2局打った。
中盤までは良いのに終盤で乱れる悪い癖が出て2局とも負けてしまった。
先週私に敗れた人が今日は2連勝しており、実力は紙一重のようだ。
互先なのでウクライナのトップレベルは私と同等かそれ以上と判断できる。
日本でのように落ち着いて対局できないし、疲れも出て集中力を欠いていた。
7時過ぎに解散、アルカーディア氏がホテルまで、どのように帰るのか尋ねるので、近くにタクシーも居合わせるしタクシーと返答し、アルカーディアが運転手にウクライナ語で指示してくれた。
料金は10グリブナでどうかと私が直接、運転手と交渉し無事ホテルへ戻ってきた。
この国は治安が悪いのでどうしても移動には気を使う。
1人で夕食をとり終わると、仲間が集まって酒盛りしている、近くのマーケットで食料を買い込んできたのだそうだ。
ハム、オイルサージン、ブドウ、ウオッカ、ビール、チーズなどなど盛り沢山であった。
明日はまた3時にリーグ戦に出かける。

平成9年10月5日(日)

ビニッツアに行く荷物を整理し、今日は青少年宮まで単独行動となるので、練習もかねて散歩がてら、トラムで青少年宮まで出かけた。
人通りも多く、陽気も良く、難なく青少年宮まで行くことができた。
目的達成した満足感があった。
約10枚ほど街の様子の写真も撮り無事ホテルまで戻ってきた。
所要3時間の冒険であった。
昼食も停留所近くの売店でパン、かにもどきカマボコを買い、水を飲んで済ました。
午後再び、青少年宮へ出直す。
その間、自宅と若生氏へ国際電話で無事を報告。
プリューセシもティシェンコも到着していた。
ティシェンコ氏が子供達に教えている時間であった。
終了時刻は3時なのだろう、子供達は自由に遊んでいた。
多くの父兄も来ている。
3時にはアルカーディアを除く5名のメンバーが集まり、リーグ戦を再開、私の4回戦の相手はプリューセシである。
互角に戦っていた積もりだが、形成判断するとどうも黒の私が地が足りない。
中盤に2ケ所要点を打たれ、何かいやな気がしていた、しかしまだこれからだと勝負を挑んでいった。
しかし、彼も持ち時間45分ぎりぎりまで考え最善手を放つ。
彼は私より掛け値なく強い。
遂に投了した。
アルカーディア氏には勝利したので、結局リーグ戦は2勝3敗の結果となった。
ウクライナで充分碁が楽しめることが分かり大満足、好敵手揃いである。
ティシェンコ氏から子供達に指導碁をうってくれないかと頼まれたので快く引き受け、3面打ちで応じた、勝負がつくと次々に相手が変わり、7局位打った。
子供との他面打ちも楽しいものだ。
19路盤6子が2局、9子が1局、4子が2局、13路盤で2局打った。
私が勝負手を放つ、子供が応手を誤り私が勝つというパターンが多かった。
子供の指導には勝たせる方がよいのではないかと少し反省している。
ティシェンコ氏が私の名前を紹介したので、子供達はKomoto Komoto と口口に呼んで親しまれた。
盤側の父兄はどう感じたか、ゆっくり対話できればと惜しみながら会場を後にした。
午後7時それぞれ帰り支度を始めプリューセシが最後に部屋の鍵を締め、帰路に就いた。
父兄の車に乗せてもらうか、 地下鉄かの選択を迫られ、地下鉄に乗ってみたいと申し出た。
ティシェンコ氏が同じ方向 なので、ホテルまで送ってくれることになった。
地下鉄はキエフ市民の足である。
間隔も短く、乗り手も多い。
アルセナーナ駅は地上から長いエスカレーターでプラットフォームに出る。
地下鉄の深度は世界一かもしれない。
因みに料金は距離制限なしで30コペイカ ティシェンコ氏に送ってもらいホテルへ無事帰着した。
ゆっくりホテルで食事でもとりながら話しましょうとさそったが、彼は家に病の母がいると断ったが、断る口実に病人を持ち出したのかもしれない。
別れ際に彼は「カササギの意図」という物語を書いた1ページの用紙を取り出した。
勿論日本語で書いてある。
彼が作ったものだという。
私にもっと上手く日本語表現してほしいという。
快く引き受けた。
次の日曜日に持っていくと約束した。
イソップ物語のような子供向けの二羽のかささぎの知恵を物語にしたものだった。
外は強風になった。
彼はかさを持たない。
強い風雨の中を敢然と帰っていった。

平成9年10月6日(月)

今日はホテルを一旦引き払って、ビニッツアに行く。
朝5時半に目が覚めた、早すぎる 集合時間は7時半である。
あと1時間ベッドで過ごそうと思い、そのうちまた眠り込んでしまった。
次に目がさめたのがなんと7時20分ではないか、焦ってしまった。
恥ずかしくない程度にひげを剃りワイシャツ、ネクタイ、背広に着替えビニッツアで必要とするものをカバンとリュック、ショルダーバッグに詰め込み、忘れ物をしないように10分で準備した。
しかし、時計を見ると7:40になっていた。
案の定佐藤さんが心配してきてくれた。
ルースホテルに残すものを彼に運んでもらい、10日分の宿泊費をUS$1700VISAカードで支払った。
更にセーフティボックスを空けなければならない 5分要した。
結局、私の遅れで、8時出発となった。
単調な平坦な道を走る。
ところどころ牛の放牧を見かける。
道端で、リンゴを売っている。
日本のものより随分小振りである。
リンゴ園があるとも思えない。
ジトミールという町が丁度キエフとビニッツアとの中間点、ドライバーを含む12人が3台の車で旅をする。
3台は時々待ち合わせをしながら、道を間違えないように確認しながら走った。
4時間でビニッツアに着いた。
ホテルはパディリヤといい、ビニッツアでは最高級ではないが安全なホテルだそうである。
一泊4500円 4泊分260グリブナ現金で支払った。
F.Slyeがカードで支払っていたが、手間がかかりすぎていたので、私は現金で払った。
308号室シャワーはあるが、風呂はない。
化粧品もなく、石鹸とタオルは備えられていた。
暖房も入ってない。
テレビもあるが、今日はまだ操作方法が分かっていない。
リモコンもなく、部屋の鍵が極めてかかりにくい。
不便だが、安い料金と土地柄を考えればやむをえないと思う。
ホテルでチェックインし、昼食をとった、今日は朝食抜きだったので、特に豪華に感じた昼食であった。
ボルシチ、サラダ、サラミ、ハムにメインディシュはポークチョップ。
昼食後RDC(South West Regional Dispatching Center)訪問である。
系統制御を中心に見学・調査した。
またまた3ケ国語のギャップのため、英語による説明に、途中からついていけなくなった。
津村氏のペースで進むのはやむをえないが、何ともフラストする。
彼も早く安心したいのだろう。
何をパイロットに選ぶか早く見通しをつけたいのだろう。
リスクが少なく、時間と金の制約の中である、彼の立場も大変である。
車の中で津村氏といろいろの話をしながら来た、この国ではワイロが慣習になっているとのこと、いずれはワイロを要求されるだろうという。
今後この話がどうなるか興味深い。
ビニッツア滞在を金曜日まで予約したのに夕刻には変更になってしまった。
私は木曜日にキエフに戻り、F.Slyeを入れてパイロットプロジェクトの議論をすることとなった。
ここまで書いてきて、悪寒を覚えてきた、さあ、暖かいシャワーを浴びて寝ることにしよう。
明日はVinitsa Oblenergo配電会社の調査、9時半出発である。

平成9年10月7日(火)

今日は快晴である。
ビニッツアの2日目。
ホテルの鍵の開閉が未だ要領を得ない。
何回か試行するうち、偶然開閉できる。
ホテルの朝食を済ませ、Vinitsa Oblenergoへ出発。
Oblenergoから2名上品な女性がVanに乗って出迎えてくれた。
PCIの車も3台あるので、余裕がある。
我々NSDグループはそのVanに乗り約10分Oblenergoでは小奇麗な部屋が用意されていた。
Oblenergoのメンバーが7・8名紹介されるが、部署も名前も聞き取れない。
英語に堪能な人にも無理らしく参加者名簿に名前を記入してもらっていた。
ロシアあるいはウクライナの名前が我々には不慣れだからである。
全体会議で3つのグループの行動予定を確認した後、各グループ別の活動に入った。
午前中はビル内の各組識を案内してもらった。
案内人はあの上品なおばさんであるMrs.Solokova、津村、佐藤、コルニーロフと私の4人で回った。
技術部、営業管理部、バーター契約部、人事部、給与計算部など各部長とインタビューし多すぎるほどの情報を得たが、本当に重要な情報を得たかどうかは疑問である。
ウクライナの組織名称が西側あるいは日本と違うので,「貴部の機能は何か、」から聞かないとまた機能を聞いても容易には理解できない。
例えば、バーター契約部、ウクライナの電力料金は約15%しか現金収入にならない。
圧倒的にバーター取引で処理されているのである。
西側諸国では考えられない状況である。
最後に訪ねた情報システム部門では我々が用意した調査表を見て、自分達でもユーザー部門にアンケートを出し、社内で使われる情報はどんなものがあるが調査されていた。
ウクライナでもこんな仕事熱心な人達がいるとは驚いた次第である。
IT質問表も今までで最も分かりやすく回答していただいた。
需要予測部門の部長が不在のため、インタビューできなかった、MRIグループは社長にインタビューしており、私も途中から参加した。
ローカルなだけに、こうして遠方からの訪問者に対しては親切なのであろう、わざわざビニッツアに来た甲斐があるというものだ。
机上には一見高価に見える金ピカのボールペンがペン立てにあり、おそらく西側からの贈り物であろう。
社長は体格・風貌とも貫禄十分、我々にも親切で、折角のチャンスだから博物館も見ていくようすすめられた。
金曜日のプレゼンテーションにも是非出席したいとのこと。
4時ごろインタビューを終了し、資料を整理しなければならないと考えているところに、「まだ博物館が開いています、今からご案内しましょう」とソロコバさんが入ってこられた。
再び、Vanに乗り込みビニッツアの田園地帯を30分ばかり走り、博物館へ到着。
美しい小さな河のほとりにあるピガロフ博物館。
私は全く無学で、恥ずかしかったが、ウクライナあるいはロシア圏ではピガロフといえば知らない人はないという高名な外科医である。
ピガロフ氏が晩年をこの地で過ごした記念すべき所です、と案内された。
質素であるが、清潔で、静かなたたづまい、彼の業績が整然と展示してある。
診療中の氏の姿が油絵で描かれていたり、病気診断に使ったといわれる精巧な人体内部構造図、氏が工夫考案した数々の外科手術、執刀の道具、戦争において敵・味方分け隔てなく治療に当たった様子、普通30分くらい要する手当てを氏は5分で終えたというスピード振りなど、氏の偉大さを称える展示内容であった。
氏が使った薬局も蝋細工で再現されていた。
死後、ミイラで保存されている。
その教会に案内してもらった。
博物館から車で10分小さな茶色の教会に荘厳で美しい白い顔をした氏のミイラがお墓として安置されていた。
思い出に残る博物館の見学は望外だった。
6時にホテルに戻ると、他の連中が待っていた。
ビニッツアの美しい街を散歩しようと繁華街の散策に出かけた。
トラムとトロリーバスが走る美しい街並みであった。
特に今日は快晴であったし、夕刻特有の雰囲気が良かった。
もう、早くも10時半、明日からの仕事が沢山残って気がかりだが、うまく進むと思う。
佐藤氏もコルニーロフ氏も元気で前向きに取り組んでくれている。

平成9年10月8日(水)

ビニッツア3日目今日は曇り、やっとかぎの開閉の要領が分かった。
Vinitsa Oblenergo(日本流にいえばビニツア配電会社)の出迎えの車に佐藤氏と乗り込み、RDCへ向かう。
RDCのIT,InformationFlowの調査である。
副社長兼コンピュータ部長のシェパック氏に今日の目的を説明し、ITサーベイのフィルインにとりかかった。
IT,アプリケーション、IS部門の3パートに分けてフィルインしようとしたが、氏はとても全部は応えられないという。
氏の管轄するIS部門のページを広げたまま全く未記入である。
従って口頭尋問しながらフィルインしていった。
1つずつ片付けていくよりない、氏は次々に資料を提供し協力してくれるので有り難かった。
接する人達が皆、親切でまじめで極めて協力的である。
忙しい日本では考えられないほど文句1ついわず協力してくれるし、前に渡した資料についても「それは以前XXさんに渡した」とはっきりいってくれる。
実に友好的に事ははかどる、しかし、通訳を通じるので、真意の伝わらない部分がある。
全体としては、時間の割に重要な情報が得られたので、期待以上の成果であった。
NDCからアウトプットされる日次給電計画表について詳しく理解できたのが良かった。
現状が分かると共に周辺のもろもろの状況を推し測ることができる。
午後3時までシェパック氏の部屋で活動を続けた。
佐藤氏も疲れた様子、これ以上インタビューをつづけると後の情報の整理が大変になると判断し、ヒアリングを終え、別室を借りて3人で整理作業をした。
別室は北向きの広い部屋で非常に寒い。
ヒーターを持ち込んでくれたが、すぐには温まりそうにもない。
シェパック氏は再び自室に呼び戻し、日本の状況をあれこれお聞きしたいと希望が出た。
日本での国営企業の民営化や、原子力発電のことなど30分歓談した。
そして氏は私達のホテルまで送ったくれた。
夕食後、金曜日佐藤氏が発表する要旨をまとめた。
夕食時皆にワインを振る舞った。
振る舞ったといっても各人グラス1杯で飲み干す程度でしかなかったが、

平成9年10月9日(木)

今日は私1人ビニッツアのパディリャホテルをチェックアウトする。
カウンターでチェックアウトを申し出るとコルニーロフ氏が来てくれて、1泊分の宿泊料の払い戻しを交渉してくれた。
現金で払っていて良かった、カードによると払い戻しできないという。
63グリブナ戻った。
ツイダルキンの指示通りヴィタリーの車に乗り3人でOblenergoに向かった。
Oblenergoでは新たな情報は少なかった。
2回目なのでやむをえない。
午後2時いよいよ私だけビタリーの車でキエフに戻る。
ビタリーはウクライナ語しか話さない。
共通語がないこの2人旅はどうなることやら。
途中30分走ったところで1人の男を車に乗せた。
勿論私に相談はない。
一見したところ軍人だとすぐに分かった。
制服、制帽を身につけていたからである。
私は軍人がヒッチハイクしたと判断した。
まずく考えれば、どんなことでも考えられる、ビタリーが徒党を組んで私を誘拐するのではなかろうか、と頭をかすめもした、しかし、そのように疑ったりすると際限なくなる。
英語で話しかけようとしたが、返答はない。
英語を話さないのだろう。
車に乗り込んだとき、キチンと会釈したし、軍人の特権でヒッチハイクが許されるのであろうと考えるようにした。
30分ほど走ったところで男は会釈し、車を降りた。
私の推量したとおりヒッチハイクだった。
ほっと胸をなで下ろした。
道路端でリンゴや梨を売っている。
ビタリーは梨を7・8個買った。
私に食えという。
丁度、水気の欲しい時間でもあり皮ごとかぶりついた、日本の梨とは形が違い丸長の洋梨であるが、甘さは薄いが、うまかった。
非常に限られた彼の分かる英単語で会話するので、幼稚な会話しかできない、意味が通じなければ、身振り手振りである。
彼は22歳で既に車を2台持っているという、なぜこの国でこの若さで2台も持てるのか理由はとうとう分からない。
ガソリンが切れて、途中スタンドで給油したときにPCIは充分なガソリン代を払ってくれないとこぼしていた。
それにしても4時間の珍道中であった。
朝からどうしても見つからなかったボールペンも見つかり、再びキエフルースホテルにチェックインし、明日はF.Slyeがアイルランドへ帰るので、別れの夕食会を東方飯店でした。
預けていた荷物2個も解いて、久しぶりに湯ぶねにつかり、これを書いて12時寝ることにしよう。
明日はFintanがどんなパイロット案を残していくのか、私も案をださなければならない。

平成9年10月10日(金)

新しい部屋は11階12号室電話番号は2342である。
今日も秋晴れで暑い。
形通り、3つ揃えで出かけたが、オフィスでは上着を脱いでいた。
仕事の方は、Fintanが今日アイルランドに帰るので、津村氏がパイロットプロジェクトの見通しをつけておきたい、そのため私は、皆より早くキエフに戻ってきたわけである。
午前中は津村氏に来客が多く、3人の打合せはもてなかった。
幸い私は昨日分の議事録が書けた。
勿論日本語、通読して、井坂氏に英訳を頼んだ。
午前中ソフトレーティングの責任者が来てR3システムの話を聞いた。
この件も私が議事録をとると申し入れ午後まとめあげた。
午後2時半から3時に3人の会合がもてた。
FintanはSSAパートをExcelなどでなく、RDBや高水準プログラム言語できっちり作り込むべきだと提案、私もそれしかないと意見したので津村氏も一安心の様子であった。
業務を変更しなければシステムは作りやすい。
ただし、最も重要なこの分野の調査が未着手なのである。
もし現場の協力が得られなければ、システム設計などできはしない。
1日遅れの佐藤氏も戻り、MRIの二人はこの週末キエフスカヤホテルに泊まるという。
佐藤氏のビニッツアでのプレゼンテーションも無事終わったとのことで比較的平穏な1日であった。
明日は早くも3週目の土曜日である。
散髪、買い物、日本食を楽しみに寝る。

平成9年10月11日(土)

ゆっくり楽しめる週末が来た。
朝7時自宅へTel。
午前中佐藤氏の案内でキエフのメインストリートであるクレスチャティク通りを散策、大きな市場や、独立広場を散策した。
独立広場では、民族衣装を着たいくつものコーラスグループが大通りを歩いて集まってくる。
次々に特設のステージに上がり、コーラスの練習をしている。
一方の大通りでは観光用馬車、馬、猿を肩に乗せた記念写真屋など賑わっていた。
たいしたみやげも無さそうだと思っていたが、クリスタルガラス、や陶器が安そうである。
品質もよさそうでクリスタルは良い音色を出している。
気に入ったものはその時買っておかないと、すぐ在庫がなくなってしまうのがここの相場だそうである。
それは午後教えられたので、明日の参考にしよう。
午後1時半、井坂氏が迎えに来た。
佐藤氏と3人で散髪に行く約束をしていたのである。
ようやく2時半に店を探し当て、カットとシャンプーで15グリブナ、中国旅行の際、敦煌で散髪した時は30元で気持ち良かったのに比べると落ちる。
キエフの繁華街だから高くつくのだと想像する。
しかし、初期の目的を達成したことに満足し、頭もスッキリした。
その後MRIの二人が泊っているキエフスカヤホテルに行き、二人も合流して日本食の夕食に臨む。
私も約10種の日本からの食料を持参してきたのだが、ホテルでお湯を沸かせないことが分かった時点で、井坂氏に提供してしまったので今はなにもなくなった。
輸入品がキエフで一番豊富なスーパーで買い物7人分約1万円ほど買い込んで津村氏のアパートに向かった。
佐藤氏がコック役を務めてくれた。
にわとりの丸焼きはスーパーで13.5グリブナで買ったものだが、うまかった。
材料が材料なので、日本食といっても、日本で味わえる日本食とは訳が違う。
米の飯、さきいかと卵スープと吸い物をおいしくいただいた。
ホテルに戻り、先週預かったティシェンコ氏の宿題「かささぎの意図」を日本語洗練し終わる。
寝るのは11時半。

平成9年10月12日(日)

今日も快晴、若生氏には午後2時Tel、朝食後、佐藤氏と散策とショッピングに出かけた。
10時20分にホテルを出て、デパートに着いたのが、10時40分。
日曜日の開店は11時とあり、独立広場まで露店を見ながら散策した。
キエフ市内地図と英露・露英辞典をいずれも5グリブナで買い、昨日唯一、気に止まったクリスタルを売る露店には動物の置物は小さいものから売れてしまっており、大きな亀、牛の2つしか残っていなかった。
17グリブナだから買っても良かったが、デパートや専門店もみてから決めようと思い、買いそびれた。
ほんの1分もかからぬところにクリスタルグラスや陶器の専門店を見つけた。
動物の置物、飾り物はなく、食器や花瓶、小物入れが並んでいる。
花瓶2本、小物入れ5個をおみやげに買った。
ロシア人形もおみやげになりそうで興味深く見た。
10ピース、8ピース6ピースなどいろいろあり、選定に迷う、1個は買って帰ろうと思う。
但し、今日は買うのを控えた、もっと目を養う必要がある。
午後はまたトラムに乗って青少年プラザへ向かう。
大人はティシェンコ氏と1人の母親、 プリューセシをはじめとする高段者は今週ヨーロッパ選手権大会でスロバキアに遠征しているのである。
今日は子供達と手合わせしよう。
1人の女の子は将棋盤を出していた。
ティシェンコ氏は子供達に将棋も教えているのだそうだ。
そしてみずから作ったという木目こまかい駒一式を見せてもらった。
ティシェンコ氏は手先の器用な人である。
私はティシェンコ氏が次々に呼んで相手になる子を選び、私に置き碁で対戦するよう促し、子供達と多面対局、余りに次々で、よく覚えていないが、10人以上対局したと思う。
記憶に鮮明に残る1局は私が討手返しを見損じたものである。
多面打ちでウッテガエシになっているのに気づかず、他に打ってしまった。
相手の子供は即座にウッテガエシをとり、後、数手打っている間も先生のこのところを打ち抜いたのだと誇らしげに周りに言いふらす喜びよう、その喜ぶ表情は未だに忘れられない。
子供との指導碁はこの方がよいのではないか。
こちらも「コモト、コモト」と子供達から親しみを込めて呼ばれ気持ち良く対局できた。
子供の指導もまた面白い。
ホテルに7時半戻り、子供達の笑顔を思い出しながら夕食をとった。

平成9年10月13日(月)

霧につつまれている。
今日は午後からDnipro Hydro Energoドニプロ水力発電所及び発電会社本社を訪問。
オフィスから車で35分、古い発電所であった、勿論ドニエプル河から水を取って水力発電している。
緩やかな流れの河なので高低差は少ない。
発電所を大勢で見学した後、我々Wholesale Marketチームは D.Davisと佐藤氏と通訳のJuliaの4人でIT部門のチーフとインタビューした。
2つの建物はLANが設備されているとはいえ、初歩的なOA程度のコンピュータ活用であった。
発電機の取り替え工事がなされていた、世界銀行がスポンサーとなり、2000年後もずっと続く水力発電のリハビリテーション・プロジェクトだそうである。
世界銀行のウクライナ支援プロジェクトはウクライナを西側諸国へ近づけるための政治的配慮が働いている。
CIS諸国の中でおそらく最も注目されている国ではなかろうか?

平成9年10月14日(火)

今日は丸1日がかりTripoly火力発電所を訪問した。
9時15分PCIオフィスを出発、3台の車に分乗して約1時間の行程、キエフ市内を約40分走ると、郊外の田園風景、農家が集中しているところが、ぽつぽつと数箇所あり、他はただ広い原っぱが続く。
松林もあった、松林の奥は政府高官の別荘との話であったが、車からは松林に隠れて見えない。
火力発電所の見学が始まった。
設立は1960年代で当時としては、最新鋭設備だったそうである。
今でも発電技術を学ぶ学園が隣接されている。
発電所長は燃料不足と燃料の熱効率の悪さのため、落ちぶれてしまったと語る。
しかし、人間は威風堂々、オープンな方であった。
非常に親近感を覚えた。
昼食、調査終了後、帰途に就く前のパーティには、シャンペン、や地元でとれたすいかやリンゴが振る舞われ歓待されてしまった。
チェルノブイリ原発事故の話も披瀝された。
発電所長は実にオープンにいろいろの話をされた。
訪問者からも何か話ししてほしいと、所長が要望され、私にあいさつせよということになった。
何の準備もしてきておらず、少し狼狽したが、こちらも、率直に意見を述べる方が良いと判断し、次のようにあいさつした。
歓待の御礼を述べた後、「ここの発電所は設備が古いようですが、働いておられる方々は所長様はじめ、皆様人間が若々しい、溌剌としておられる。
皆様の指導で、若者を育て、その若者達が設備を活き返らせられるでしょう」。
勿論、日本語で話し、通訳がロシア語に直してくれた。
後から、皆が良いスピーチだったと称賛してくれた。
ITの調査も日本語で質問し、ロシア語で回答してもらう方法だったので、こちらのペースですすめることができ、英語のプレッシャーがない分スムーズに進めることができた。
デジタルカメラ撮影も許され、これなら写真も公開できる。
ホテルへ戻ると、ワイシャツをクリーニングに出すためドアの近くに置いて出かけたわけだが、洗濯されて戻っていた。
メイドが来て10グリブナ払えという。
手で示しながら、前回5グリブナやってくれたのにと文句をつけると、5グリブナでハラショーといって受け取った。

平成9年10月15日(水)

朝から雨、夕方上がる。
午前中はNERCの調査予定であったが、会計チームの都合で予定が変わった。
我々マーケットオペレーションチームはオフィスにとどまり、議事録のまとめ、Tarasenkoへの説明の準備や、NSDへの中間報告書の作成や、ITサーベイの結果を構成図にまとめていく作業を行った。
午後はSettlementの担当者が来た。
いきなりSettlementの担当者は誰だと尋ねている様子である、慌てて名刺を出し、「私が担当である。
」と申し出た。
3分くらいすったもんだした挙句、津村氏が慌てて戻ってきて話し始めた。
Goloubマネージャーの下でEnergomarketを担当する者だという。
日本語通訳はいないので、津村氏がAnatolyの通訳で英語で会話を進める。
私も英語とロシア語の会話に参加した。
津村氏のペースで話し合いは進む。
1時半から4時半まで話し合いは続いた。
津村氏の質問の背景や狙いが理解できないのと、英露の会話で神経を集中していたので疲れてしまった。
それでも会話の内容を要約しておかねばならないと思い、議事録のつもりで総括した。
まあ予定通りには進まないものだ、臨機応変というか、無茶苦茶というか、何が起こるか分からないが、津村氏の意向に沿うよう画策していることだけは確かである。
昨日に続いてホテルでクレームがついた。
私のホテルの予約は10/10/‘97の1日だけだという。
宿泊代を払えと要求しているらしく、私は10月22日まで滞在するといって延長を要求した。
部屋のリザーブはPCIに任せていたので、どうしてこんなことになったのか理解できない。
最終日にまとめて精算するといったが、相手が引き下がらないので、やむなく今までの分をVISAカードで支払って一件落着した。
1029US$払った。

今夜もホテルでの夕食、もはや変化がなくてわびしくなる。

平成9年10月16日(木)

小雨模様、午前中はNECに調査に出かけた。
NECは送電会社でオフィスと同じビルの7階に本社がある。
早速、インタビューに入り、本社―8支社―130の変電所があることを理解した。
送電設備をREnewするには毎年110m$を要するという、そんな金があるわけはない。
それにしても現場に行けばいくほど経済事情は悪いらしい。

平成9年10月17日(金)

そろそろ私の滞在も残り少なくなった。
夜はPCIのアパートに集まり、佐藤さんが料理の腕を振るい日本人グループが集まり、津村夫人(英国人、ロンドン郊外のケント出身)長男の健君(津村夫妻に子供ができなくてタイの子供を養子にしている)も入って会食した。

平成9年10月18日(土)

ついに運命の日がやってきた。
碁に行ける楽しみな日なのに、なぜか早朝4時頃突然目が覚めた。
右足が異常にしびれる。
ふくらはぎが痛い。
寝直したら午前7時井坂氏に電話で起こされた。
母の訃報である。
日本を発つときは容態は落ち着いていたので、安心して出てきたのに、早速自宅に電話し、確認した。
妻は私に直接電話したかったのだろう。
私の声を聞いたことに安堵した様子だった。
しかし、すぐに言葉を続けた「お母様がだめだった」と。

弟の信には電話連絡したという。
私は急いで返らねばならない、喪主を勤めなければならない。
緊急に返り支度をはじめた。
航空便はPCIの方で何とかしてくれるだろう。
とにかく一刻も早く帰らなければ、何も決まらないだろう。
碁の約束は電話で事情を説明し断った。
航空便はフランフフルトまでは確保できたとの連絡が入り、佐藤さん、井坂さんがキエフ空港まで見送ってくれ、帰路に就いた。

私をここまで育ててくれた母、94歳、天寿を全うしたとは言えやはり寂しさが込み上げてくる。
今まで、私の人生は母のお蔭で、幸せに推移してきたと思えてならない。
母を失ったら不幸がつきまとうのではないか、何はともあれ、早く自宅に戻らなければならない。
家内はじめ子供達が途方に暮れているのではなかろうか。
兄弟達が右往左往しているはずである。

フランクフルトに着いた。
JALのカウンターで、事情を説明した。
夜8時50分発の便に席があるという。
但し、それはビジネスクラスではない、やむをえない。
しかし、幸運である、ボーディング直前にビジネスクラスが確保できた、早速空港内ビジネスラウンジから国際電話し、最も早い方法で帰国できる旨、連絡しこうして帰国の途についている。

(第1回現地調査 平成9年9月24日−10月18日)