ウクライナ日記 第5回 現地調査(平成10年8月15日―8月28日)

8月15日(土)

5回目のウクライナ出張。
今回は自らパリ経由を希望し、念願がかなった。
初回フランクフルト、2回目チューリッヒ、3回目ウイーン、4回目ロンドンときたので、一度パリを経由してみたかった。
同行のMRI社の宮崎氏は海外旅行に慣れており、特に希望はなく、私の希望に沿ってくれた。
11:40の成田発JL405便はパリ経由イスタンプール行き、夏休みのピークは過ぎたのだろうかビジネスクラスの座席は3割程度しか乗客はなく、ゆったりして機内サービスも行き届いていた。
ミニ懐石料理に舌鼓を打ち、話題の映画タイタニックを観賞しながら無事、パリ ドゴール空港に着いた。
17時10分時差7時間なので13時間のフライト。
パリは快晴、爽やかな天候に恵まれシャトル便で日航ホテルに到着、JALで来て、日航ホテルに泊まるわけであるから、お客は全員日本人。
機内では娘が貸してくれたブルーガイド「パリ」を読みふけった。
少しでもパリ見物ができればよい、ホテルの近辺あるいは手短に地下鉄で行ける所はないか、興味深く読んだ。
主要観光名所の位置、地下鉄の走る範囲など、おおかた頭に入った。
日航ホテルはエッフェル塔に近く、娘もエッフェル塔からパリ市内を見下ろすのが、おすすめと言っていたので、宮崎氏を誘ってエッフェル塔へ出かけた。
ところがなんと観光客が長蛇の列を作っている、これでは塔に登るエレベーターに乗ることができない。
土曜日の夕方7時半、この時期はパリは夜9時まで明るいそうである、とはいっても待つ時間はもったいない。
エッフェル塔に登るのは諦め、セーヌ川河畔に出た。
しばらく景色をながめて、これが「セーヌ川なのか」と感慨に耽った。
遊覧船が行き交っている、エッフェル塔前という船着き場を見つけた。
セーヌ川からパリを見物しようと宮崎氏を促し、エッフェル塔から、ノートルダム寺院まで遊覧船に乗った。
1人40フラン、遊覧船からの観光は大成功、夕暮れのパリ セーヌ川の両岸の有名な建物を見ながら、約30分の見物を堪能した。
ルーブル美術館、オルセー美術館、サンジェルマン教会、勿論ノートルダム寺院も見ることができた。
咄嗟の判断で遊覧船に乗船したので、さて、ノートルダム寺院からどうやってホテルに戻るか、タクシーを拾えば楽だが、能が無いと宮崎氏と話し合いながら、パリのガイドブック片手に地下鉄駅を探した。
すぐに駅は見つかり、1回の乗り換えでホテルへ戻ることができることも分かり、難なくホテルへ戻ってきた。
地下鉄料金は5.5フランで均一料金。
僅か2時間の散策ではあったが、充実した時間であった。
私の「パリの空気に触れたい」という目的は充分達成され満足である。
ホテルに戻り、ミールクーポンを利用して、ホテル内のレストラン、ブラッセリーミラボーで夕食、ビール、温野菜、ビーフステーキ、デザートのメレンゲとコーヒー2人で550フラン 満腹になって部屋に戻る、11時半、一風呂浴びて床に就く。
妻と約束しておいた絵ハガキは明日どこかで買えるはずだ。

8月16日(日)

1人120フランの朝食券も与えられている、ルームサービスですばやく済まさなければならない。
フランスパンとクロワッサンとコーヒーだけだが、パンが実においしかった。
クロワッサンはリュックに詰め込んだ、6時55分迎えの車が来て、空港に向かう。
時間的余裕をたっぷりみているので、朝早く出発し、空港で長く待つのである、キエフ行きエールフランス2672便は9時55分発であるから、2時間半空港で時間をつぶすことになる。
300フラン両替したうち、未だ100フラン残っているのでキエフの仲間達におみやげのクッキーなど買って、絵ハガキを買って妻に無事パリに着いた旨、一筆入れてエールフランスのラウンジでポストに入れるよう頼んだ、。
キエフ行きは機内に乗り込むバスの中で20分待たされ一抹の不安がよぎった、おそらく整備に手間取ったのであろう、しかし、難なくキエフに到着。
キエフ ボリスポリ空港では入国審査、税関検査が慎重で時間がかかる、出迎えの井坂さんと逢えたのが16時半。
ルースホテルにチェックイン、2426ルームで旅装を解き、早速必需品である水などの買い出しに出かけた。
井坂さんも休日なのに我々に付合ってくれて、彼おすすめのレストラン「アンクルサム」で夕食、ポークカツ、オニオンスープ、オボロンビール、にデザートのコーヒーをとり、満腹を抱えてホテルに戻る。
もっと時間が早ければ、碁の仲間にも会えるのにと残念だが、来週にしよう。
冷蔵庫が使えるように交渉し、ホテルの部屋でこうして日記を書いている、9時半である。
それにしてもキエフは快晴で、空気も爽やか、気温20度であり、まるで避暑に来たようである。
つくづく私は幸運に恵まれているなあと思う。
北海道あるいは信州の高原にでもいるような爽やかさである。
さあ、明日から仕事が待っている、時差ボケと睡眠不足の解消を図らなければならない。
明朝の迎えは8時30分。
円をドル、更にグリブナに両替したが、1ドルは148円、2.12グリブナで交換した。

8月17日(月)

朝目が覚めた、時計を見るとまだ5時である。
昨夜はくたびれていたので、10時に床に就いた。
よく眠れた。
睡眠不足は一気に解消できた。
またベッドに横たえていると自然に眠っていた。
次に目覚めたのは7時であった。
ルースホテルの朝食は従来と殆ど変わり映えしない。
野菜、ゆで卵、ソーセージ、麦のミルクがゆ、オレンジジュースとたっぷり食べた。
健全に過ごせそうな予感がする。
部屋の電話番号を確認して自宅と佐藤さんへ電話し、ルースホテルでの滞在が始まったことを伝えた。
自宅は生憎留守電であった。
8時40分井坂さんが出迎えてくれた。
オフィスに着くとビクターが今日から2週間の夏休みとのこと。
NSDのPCは津村氏宅に預けたままで、今日は使えない。
明日運んでくれるよう頼んだ。
コリンカーターは夕方ロンドンからキエフに来る。
9時20分頃津村氏が今までの状況を報告してくれた。
SSAの提案書を提出してくるのはABB1社のみ。
RFPに関する質問は今日が締め切り日。
しかし、彼の予想では質問は来そうに無いということ。
何と低調なことか、ABB社からの質問は来たのかと問うと全然来てないという返事。
ABB社は質問もしないで、まじめな提案書が書けるとは思えない、前回ロンドンで会ったNGC社も提案書を出さないとのこと、急に不安になってきた。
案の定、夕方に津村氏はABBの提案が予算をオーバーしたらどうしようと心配し始めた。
MISとSSAの両方でPILOT PROJECTの予算は1億円、それにしても、業者から全然質問が来ないとは何たることか。
津村氏は業者選定基準をきめ細かく作成しており、私も一通り読んだ、Excelで自動的に総合点が出る仕組みになっている。
採点の配分が適切でないと感じたが、まあこれで評価を試行してみよう。
津村氏は業者を選定した後の契約書作成の方針を私に読むよう指示した。
こうして今日の仕事は準備運動という程度であっさり終わってしまった。
真剣にPILOT PROJECTに取り組むとしたら、NSDに頼むしかないかもしれない。
コンピュータをAS/400にして上田さんの協力を得て、やれるのではないか、再び頭をよぎる。
夕食は宮崎氏お気に入りのレストラン コロナへ行った。
コロナビールとポークの照焼きで40グリブナ、ホテルへ戻り、まだ9時半だが、今夜も早めに寝ることにしよう。
それにしてもキエフの気候は穏やかである。
今日も避暑気分、さわやかで過ごしやすかった。

8月18日(火)

今日もよく眠れた、晴れ、風がさわやかである。
昨日、SSAの質問が業者から1件も来なかった点を心配したが、そのことを、日本の佐藤さんへFaxで連絡した。
昼休み津村氏と食事しながら、最悪のケースはNSDに開発を頼むべきだと進言した、津村氏も早速、橋本さんへ連絡しておきたい、と言い出した。
生憎、橋本さんとは電話連絡がとれず、残念がっていた。
RFPに関する質問への回答を目的に、昨日から現地入りしているのに質問は1件も来ない、不安にかられながらも、いろいろの資料をスタディしたりして過ごしている。
昨年12月も本来の仕事がなかったが、今回も同様である。
ウクライナ電力の電力料金がどんな割合で関連企業に流れるのかHagler Bailyの調査資料を読んだりした。
Cashは10%に満たない、卸値は2.6セント/1Kwhであること、小売値は4セントであること、IESが消費量の25%、Oblenergoが75%の割で電力消費していること、送電ロスは110KV以上の高圧送電網で3%中圧35KV-110KVで3%、それ以下では8%など、キーとなる数字を把握した。
次に今回PCIが契約書作りの参考文献にしているアウトソースサービス提供に関する業者とユーザの合意書、これは法律が関係する内容で退屈でよく分からなかった。
初めて見る新たな英単語が数多く出てくる。
午後3時頃、1人の青年がオフィスに現れた、BancomvyazというウクライナのソフトハウスがMISの提案書をドラフトレベルとして持参したのである。
私はウクライナ現地の業者がどの程度の提案書を書くことができるのか興味深かった。
SSAでは最初から現地の業者は無理だろうと想定し、現地の業者には声をかけていない。
本来MISグループが先に目を通すべきだが、宮崎氏もコリンも別件で忙しそうなので、私が拝借して読み始めた。
実に内容が濃い。
このレベルの提案書が書けるのなら、SSAのPayment Calculationも頼むべきであった。
料金は安いし、ユーザとロシア語で会話できるし、ローカルカンパニーが自国の電力セクターに入り込むことになる。
メリットは極めて大きい。
我々の判断は間違っていたようである、最初から、現地の業者ではダメだろうとタカをくくってはいけなかった。
夕食は宮崎氏とコリンが急遽仕事でオフィスに戻ったため、私1人になった。
キエフ大学のまわりを散策してクレスチャティク通りに出た。
公園の露店でビールを飲んで、マクドナルドのハンバーグセットで夕食を済ませた。
マクドナルドはクレスチャティク通りの中心、地下鉄駅に隣接しており、客で賑わっている。
ロシア語しか通じないのでメニューを指差してオーダーした。
4.1グリブナなので約300円に相当する。
地元の人には高級な食べ物に属するのではないか、客の中には美しい若い女性が多く、目の保養にもなった。
ホテルに戻り、コルニーロフさん、プリューセシさん、ティシェンコさんに電話を入れ、キエフに来ていることを伝えた。
プリューセシは通じなかったが、コルニーロフ氏、テシェンコ氏は是非会いたいとのこと週末のアポイントをとりたい。

8月19日(水)

今日も睡眠十分で快適である、昨日より少し熱い感じがする、オフィスに出てEMAの改定内容を英語で読む。
津村氏とコリンは契約書のドラフト作りに懸命である。
津村氏は私が退屈ではないかと声をかける始末。
EMAの改定版はどんな内容か目次がないので、一通り読まないと内容が掴めない、読んで目次を作ってやろうと取り組んだ。
EMAの改訂版といっても、マーケットルールの内容は何もなく、手続きの改定であり、今一つ興味が湧かなかった。
一応、後の人のために、目次を作っておいた。
津村氏はABB社に対して、プロポーザル提出の見通しを電話で確かめていた。
どうも今日の予想では、ABB社のみが提案書を出すのではなかろうか、私は入札というからには2社以上少なくとも出してこないと困るのではないかと心配して尋ねた所、1社でも構わないと言う。
一応、5−6社に声をかけ、競争入札の形は取ったので、結果が1社でも構わないそうである。
夕方4時頃、津村氏は頭痛がすると言って早退した、その後、井坂氏がコンピュータショップに行きませんかと誘うので、ウクライナ国内のショップがどんなメーカーのどんな製品を扱っているのか、興味もあったので出かけた。
何と、この店は組み立て業者である、PC部品であるCPU,メモリ、HDD、モニター、筐体、などいろんなメーカのものを、購入し、PCに組み立てて売るのである。
店の名前はメルク、ロゴをCODEGENにして販売するのである。
メーカも欧州のものばかりで、私の研究不足もあり、善し悪しの判定、値段の判定はできなかった。
しかし、このようなコンピュータ後進国でも懸命に安く売る工夫をしているのだなと感心した。
ホテルで7時にティシェンコ氏と待ち合わせしたので、ホテルに戻るや否や、着替えをしてロビーで待った。
7時半が過ぎても氏は現れない、時間を8時だと間違えたのかもしれない、待ちくたびれて仕方なく部屋に戻ると、電話がけたたましく鳴っている。
ティシェンコ氏は今から家を出るところだという、事情で遅れたのである。
8時にロビーで出迎え部屋へ案内し、1時間ほど歓談した。
ティシェンコ氏はたどたどしけれど日本語を話されるので、有り難い。
思いがけもなく前回訪れた時、囲碁大会の会場で地元新聞社のインタビューを受けたのだが、氏はその記事を持参してくれたのである。
これは私にとって貴重な宝物になるべき記念である。
インタビューを受けたけれども、このように記事になるとは思っていなかった。
本当に親切な人である。
私も日本からのおみやげを渡した。

8月20日(木)

今日も快晴昨夜は少し蒸し暑かったので、窓を少し開けて眠った、午前5時頃、寒さを感じて目が覚めた。
やはり、外気は避けるべきである、と反省した。
今日は昨日ティシェンコ氏が持参してくれたキエフ日刊紙の記事を仲間に見せる楽しみがある。
早速ロシア語から英語にしてくれる人が現れた、井坂氏などは「本さんはキエフ名誉市民になるのではないか、」などと冗談を言ってくれた。
津村氏も2部コピーを要求し、日本センターや、日本大使館に配りたいという、趣味の世界とはいえ、こうして訪れた外国で、同好の士と交友を深めているのであるから、誇らしく思ってよい。
他の人からすれば、羨ましいにちがいない、。
仕事の方は昨日に続いてEMAのマーケットルールを読んだ、RFPの付録につけたExcel表と対比しながら、理解しようとした、随分理解が進み、充実感があった。
夕方6時半、MRI宮崎氏は前回のレポートの改善で何やら追求されている、私はティシェンコ氏がまたホテルに訪ねてくるかもしれないので、1人早くホテルに戻った、果たせるかなティシェンコ氏は「将棋を1局指しましょう」とやってきた。
そのうち宮崎氏とコリンがホテルに戻ってきて、私達の対局を覗いた、コリンは何と囲碁セットを持っているそうである。
しばらくの間国際囲碁談義をした。
ティシェンコ氏は1局終わると時間がないので帰ると言う、あまりにあっけないので、事情を聞くと、何と年老いた母親と同居しているのだそうである、近くまで見送ることにし、外出した。
驚いたことに、トルストイ広場からクレスチャティック通りに続くメインストリートは軍事パレードの予行練習が行われている、ミサイルを積んだトラックや装甲車がズラリ行列を作っている。
来週の月曜日はウクライナの独立記念日、そのパレードに参加する隊列である。
こんな光景は日本でも滅多に見ることができない。
私は興味深く一通り隊列を見物しながら、ホテルへ戻ってきた。
今日も恵まれた1日であった。

8月21日(金)

今日も快晴で爽やかである。
日本であれば北海道か信州の高原であろう。
オフィスではマーケットルールの資料をExcel表と照合しながら現行の料金計算システムの構造を調べた、Constraint Generationについても詳しく分析し、大方理解することができた。
午後になると津村氏からシステム開発契約書の素案が渡された。
今回MISとSSA別個に業者と契約することになる。
またMISについては6社を対象とするので、それぞれ同期をとってプロジェクトを進めなければならない、コリンがユーザをいかに協力させるかの案を作成している。
実にシステマティックな方法を提案しているので、私はまた彼の優秀さに驚いた。
日本人の感覚ではこのようなアイデアは生まれない。
MISについては我々の担当外である、しかし、興味深く目を通した。
ユーザごとにPE,KU,RPなる用語を定義してユーザの足並みの乱れを食い止めようとするものである。
理論的にはそのとおりだと思うが、現実にこの方法が旨く運用されるだろうか心配であるが、実にロジカルなのである。
こういう発想が出るのはやはり狩猟民族だからであろう、私などは現状をいかにすれば改善できるかと発想するが、彼らは理想形からアプローチする。
さて、来週の月曜日は8月24日、ウクライナの独立記念日である。
数少ない国民の祝日、ローカルスタッフは当然、休むとしても我々外国人はどうするのか、今日決めなければならない、結局週末にプロポーザルが出なかったので月曜日はプロポーザルを読むことができない。
井坂氏は3連休をしきりに薦める。
私は土日、碁をするのが通例だが、昨日来、ティシェンコ氏から今週は碁の会合がないと聞いている。
夏休み期間だからである。
私も週末をどう過ごすか名案がないまま、コリンに昼休み尋ねると、クリミア半島かルボフへ旅行したいという。
私もキエフにいては退屈するに違いないと思って、彼に構わなければ一緒に連れていってくれるように頼んだ。
3時ごろ、この件が話題になった。
クリミア半島は絶対ダメと津村氏に釘をさされた。
安全が保障されないというのが彼の主張する理由である。
コリンは仕方なくそれではルボフにするかと言い出した。
彼のプランは往復夜行列車である、私は少なくとも片道は飛行機にしたいと希望を出し、コリンも賛成してくれた。
ローカルスタッフに航空便を調べてもらった。
ルボフはウクライナの西方に位置する美しい地方都市である。
チェッコスロバキアのプラハの小型版で印象的な町と言うふれこみである。
生憎、航空便が月曜日の昼間1本しかないことが分かった。
私は独立記念式典に間に合わないことを理由にルボフ行きを断念した。
コリンは往復各12時間の夜行列車案に固執している。
少し残念であったが、年寄りが青年の足を引っ張るようなことをしてはいけないと思いコリンに断った。
ホテルに戻ると、ティシェンコ氏から電話が入り、今から碁盤を持ってホテルを訪ねたいという、また、明日は小学生と将棋を指して欲しいと頼まれる。
明日も時間はたっぷりあると答えると「じゃ、生徒達に声をかけます」との、返事。
夕方はかねてご無沙汰しているコルニーロフさんに会うアポも取り付けたので、明日は退屈するどころか、忙しい1日になりそう、津村さんからは博物館でも見物しましょうかと声をかけられていたので、むしろそちらの方を断らなければならなくなった。
MRIの宮崎氏は早くも明日帰国する、佐藤さんは日曜日の午後キエフ入りする。
月曜日は結局休みとなり、独立記念日のパレードを見物する。
避暑をしながら、存分に遊んでいる。

8月22日(土)

今日は少し曇っている、雨は降っていないが、外は地面が湿っている。
早朝にわか雨が降ったと思われる。
8時に朝食、9時半に津村氏に断りの電話を入れ、11時にテシェンコ氏が来る。
晴れればキエフ大学横の公園、雨がふれば、私の部屋で将棋を指す約束である。
どうも雨がふりそうである、11時開始となると、昼食が必要である、と考え、9時半過ぎにクレスチャティック通りに買い物に出た。
スーパーマーケットで菓子類、クッキー、ピーナツ、ジュースを買い、帰り道の青果市場でマスカットぶどうとバナナを買った。
これで数人分はまかなえる量である。
それでも合計35グリブナしかしない、日本円にすれば、2300円程度、私には安いが、地元の人には高額であろう。
何せ月給が100ドルなのだから。
ホテルに戻り、テシェンコ氏を待つ間、宮崎氏に別れを告げ、コリンはフロントでルボフ行きチケットを手配していた。
時間通りテシェンコ氏は2人の子供を連れて訪ねてきた。
名前はアレクセイとアンドレ、11年生、と10年生だそうであるから、日本では中学生である。
将棋は皆弱かった。
1人強い生徒がいるそうだが、都合がつかなかったらしい。
結局、私の部屋でおやつを食べながら将棋盤2面使って総当たり戦を行った。
まともにやるとすぐに、圧倒的な形勢になる、楽しみながらも、全部楽勝した。
最後に3面指しをしたが、これも圧勝、未だテシェンコ氏をはじめ、将棋のレベルは低い。
駒の働かせ方が全然分かっていない。
3時半にお開きにして私はコルニロフさんと落合う時間である。
テシェンコ氏も友人宅を訪れるということで、クレスチャティック通りのツームデパートまで一緒に歩いた。
コルニーロフさんに私を引き合わせて別れた。
コルニーロフさんは自宅がプーシキン通りでクレスチャティックと平衡して走る1本南側の小道である。
日本でいえば、銀座の並木通りというところか、彼は便利なところで他へは移れないですよといっておられた。
思いがけもなく、自宅に案内され感激であった。
氏は私達の日本語通訳として最初の頃、ずいぶんお世話になっていたが、今はほとんど教え子のユーリアが使われ、コルニーロフ氏の出番は少ない。
元キエフ大学の教授であり今は独立して小さな会社を起こしている。
自宅にはマッキントッシュのパソコンが新旧2台、パソコンでは日本語も使っておられる。
大きな書棚には日本語の書籍がぎっしり詰まっている。
私はウクライナでコンピュータの調達にVATがかからない方法について相談した。
氏はHotlineという週刊のパソコンカタログを取り出され、ウクライナのコンピュータ販売業者はパーツを購入し、そのパーツをアセンブルしてユーザの仕様に合うコンピュータを安く売るようにしている、そうでないレディーメイドは信用はあるが、値が倍するそうである。
氏の案内で私もそのカタログを1冊購入した、5グリブナ。
コンピュータのこともよく勉強されているし、マッキントッシュを使っておられるので、相当のキャリアであることが容易に想像できる。
日本語の書籍の豊富さに驚き、話題をそちらに移した。
氏の説明では、ソビエト時代ただじっと読書に耽っていたのだそうだ。
1933年発行の日本百科事典もあった。
歓談しているうちに奥様を紹介され、若い奥様の手料理が出た。
奥さんは日本語を話され、 教え子とのこと、手料理は日本の水ギョウザであり、こちらではプレーミャというらしい。
シベリア料理だそうである。
小麦粉の皮に包まれ、生肉と少量のタマネギが具である。
日本のギョウザ同様しょうゆ、酢、らー油につけて食べる、味もよく、何故、この料理がレストランでは置いてないのだろうと不思議に思った。
探せばあるはずですよとの返答だったが、思い出してみると、ビニッツアの配電会社で昼食に出たような気がする。
しかし、コルニーロフ宅の方が味が断然よい、全て平らげてしまった。
料理についてはコルニーロフさんがキエフ郊外の民族風レストランが雰囲気が良く、料理が旨いそうである、一度行ってみたい。
月曜日の午後でも佐藤氏を誘ってみよう。
しばらく歓談したのち、氏は碁を1局お願いしたいという、願ってもないことですと、早速4子局でお願いした。
勝負は私が勝ったが、3年もブランクがあるにしてはしっかり打たれた。
少し精進すれば、その差はぐんと縮まるにちがいない。
奥様も日本語が流暢でずっと日本語で歓談した。
こんなことで、5時間も付合っていただいた、私のおみやげは梅酒とボンタンアメであった。
こうして3連休の初日は退屈するどころか、2つも行事が重なり、現地の方々に喜ばれ、実に充実した達成感のある1日であった。
明日は佐藤さんがキエフ入りする、明日も、ティシェンコ氏が碁の生徒を連れてくるので、ゆっくり話せるのは夜だろう。

8月23日(日)

今日はティシェンコ氏が碁の生徒を連れてきた。
私は昨日と同様9時半に食料の買い物にでかけた、スーパーでクラッカーとピーナツとジュース、市場でプラムとバナナを買い約束の11時にホテルのロビーで待った。
ホテルのロビーでショートパンツで両足の長いスタイルの良い美女がソファで新聞を読んでいた。
金髪で、目鼻立ちも良く横目でちらちら眺めさせてもらった。
ウクライナ人かどうかは判別できないが、とにかくスタイルのよさが際立っていた。
さて11時15分、昨日も来たアレクセイと女学生のリザがティシェンコ氏と一緒に現れた。
食料を詰め込んだリュックをアレクセイに持ってもらいキエフ大学近くの公園に出かけた。
テーブルと椅子がセットになったコーナーがあり、そこは既にチェスの愛好家達であふれていた。
こうしてキエフのチェス愛好家は戸外でチェスを楽しんでいる、殆ど年配の男性である。
私達も空いたテーブルをようやく見つけて陣取り、碁を始めた。
しばらくして、ティシェンコ氏は「まずいことになった、席を譲らなければならない」という、どうもこのコーナーはチェス愛好家達のたまり場なのだ、私はホテルに戻ることを促し、4人ならホテルの部屋で充分である。
ホテルへ戻り、落ち着いて碁の対局に専念できる。
ティシェンコ氏の指示で私が2人の子供達と指導碁をすることになった。
2人とも青少年プラザで対局したことがある、2人とも棋力は3級だそうだが、日本のレベルでは初二段はある、5子局の2面打ちである。
さすがに、2面打ちは当方が苦しく、両方とも敗れてしまった。
4子局で再度対局、リザは女性だが、攻め合いのヨミが鋭い、私は要石を取られて50手くらいで投了してしまった。
早く終わってしまい、4子局でもう1局やり、この碁は息長く打つことを心がけたら、やはりまだ甘いところがあり、私の勝利となり、リザとの対戦成績は1勝2敗。
アレクセイの方は置き石の有利さ関係なしにいっぱいのの手の連続で、ゴリゴリ流である、チャンスはいくらでもあるようだが、決め手を与えない、妙な強さである。
結局彼には2敗してしまった。
手合いは4子局が妥当なところである。
夕方4時に碁会が終わり、佐藤氏のキエフ入りを待って、散策に出た。
キエフ大学からオペラ座をとおり、キエフ市内のもっとも美しい街並みである、教会のあるだらだら坂へ出た。
そこには坂道の両側に露店がびっしり並んである、マトリョーシカ人形、コハク、土鈴、絵画、ガラスの小さな置物、などウクライナ特産品がずらり並んでいる。
生憎、小雨が降ってきて、長時間は楽しめなかったが、土鈴2コ、卵の形をした民芸の飾り物をおみやげに買った。
マトリョーシカ人形をおみやげに買ってくるよう妻に頼まれているので、また明日出直したい。

8月24日(月)

ウクライナで数少ない国民の休日、独立記念日である。
今日は快晴、先週木曜日に予行練習風景を見ているが、本番のパレードはより盛大で素晴らしかろう。
8時過ぎに朝食のためレストランに行くと、コリンがいるではないか、彼はルボフに行ったはずなのに、早速尋ねると、帰りの切符が取れなくて断念したのだそうだ、お気の毒様。
パレードの見物は見るのか、と尋ねると、津村夫妻と見に行くと言う、昼食のことを気にしていたので、電話で確認するように頼まれた。
電話して一緒に昼食をとることに決まり、12時にドニプロホテルで会う約束になった。
さて快晴のなか、パレード見物するために、佐藤氏と9時過ぎに、出かけた。
クレスチャティク通りに続々市民が詰め掛けている。
既にトルストイ広場から、パレードの装甲車やミサイルを積んだトラックが行列を作っている、我々はクレスチャティック通りのほぼ真ん中、地下鉄駅の近くに立ってパレードを待った。
10時に軍楽隊の国歌演奏に始まり、前半は軍事パレード陸軍の戦車が先頭で、装甲車、ミサイルが後続した、ウクライナを紹介しているホームページには軍隊20万強とあるから200人に1人は軍人という計算になる、陸続きの国だから、軍隊を強化するのは当然かもしれないが、経済の高揚を図るほうが重要なのではないかと疑問を感じた。
軍事パレードの次はスポーツパレード、サッカー、バスケット、ボート、など国威発揚のためスポーツ選手がユニホーム姿で行進した。
長野オリンピックで見覚えのあるスケート選手のユニホームも混じっていた。
クレスチャティック通りの地下鉄駅近くの歩道に1時間立ちっぱなしであったので、疲れてしまった。
独立広場奥のコーヒショップで一休み(二人で5グリブナ)して、待ち合わせ場所のドニプロホテルに向かった、ホテルの4階から津村氏が大声で我々を呼んでいる、 津村一家とコリンがお茶を飲んでいた。
昼食は津村氏の案内でイタリアンレストランへ車で行き、タコ料理が旨いとすすめられ、グリルされたタコとラビオリを食べた。
マテーニとブドウ酒も飲んで夕食以上の豪華さ。
魚料理で初めて旨いと思ったのは今日のたこである。
昼食を終わると3時を回っていた。
津村夫人とケン君は帰宅した、4人が残り、車での移動がし易くなった、再び、津村氏の案内でユダヤ人虐殺の史跡を訪れた。
私も全然知らなかったが、ユダヤ人数10万人が虐殺された有名なところだそうである。
1941年―3年ナチがユダヤ人を殺戮して埋め、ドイツに戻るときに掘り出して遺体を焼却し、遺体の掘り出しに携わった作業者も殺戮してしまった、と津村氏は説明してくれた。
今日は独立記念日の行事が多く、夕方から夜にかけてアイアンレディの公園で花祭りとコンサート、折角の機会であるから見物を楽しむことにした。
ユダヤ人虐殺の史跡を見た後、アンドレ教会周辺を見物し、昨日回っただらだら坂の露天商を見て回り、津村氏のアパートで夕食をごちそうになった、アイアンレディ公園は津村氏のアパートから至近距離である。
夕食は五目すし、津村氏得意のカレー、久しぶりの和食で非常に旨かった。
夕食後、アイアンレディ公園を散策、多くの人で賑わっていた。
アイアンレディは丘のてっぺんに立つ大きな銀色の女性が剣を持って立つ像である、第2次大戦の戦勝記念でモスクワを向いて堂々と立っている。
10時にホテルに戻ってきた、玄関前は夜遅いのに数人の人が戸外にたっている、聞くと花火が打ちあがると言うのだ、夜空にあがる花火は単発で小規模だが、赤や緑の色が鮮やかであった。
日本よりひときわ色鮮やかであるように感じた。
今日は1日たっぷりキエフの街を楽しませてもらった。
昨日、一昨日と悪寒を感じている、ルル3錠飲んで早く寝るべきだ。

8月25日(火)

3連休を楽しく過ごした後の最初の仕事日。
今日の午前10時が提案書の締め切り時間になっている、9時早々に電話が入り来訪者がある。

スペインのユニオンフェノーサ社とCooper&Lybrand社が来た。
続いてウクライナのBankomvjaz社、ABB社、Softrating社と5社が提案書を持参した。
我々のSSAコンポーネントはABB1社のみで、残りの4社はMISコンポーネントの提案書である。
ABBの提案書は非常に薄い、早速読んでみると提案書になっていない。
「PCIが32000ドル出してくれれば、ABBが現地調査してユーザ要件を決めたい、その後の作業は1日1740ドルの人件費で作業を請負う」と書いてあるだけで、我々のRFPの答えにはなっていない。
今までの我々の努力を無視した高飛車な態度である。
津村氏に伝え、一通り目を通すと、「これじゃ提案書ではない」と憤然とした態度で言った。
私はABB社の提案の総括を数行にまとめ、SSAに関することはそれ以上の仕事もなくなったので、本来の担当分野でないMISのプロポーザルを読むことにした。
ウクライナの業者であるBancomvjaz社がどの程度のプロポーザルが書けるのか、SSAをやれる実力があるだろうかを判断したいためにBancomのプロポーザルから読み始めた。
かなりレベルが高い。
クライアントサーバシステムの業務処理に強いようである。
同社はMISよりむしろSSA向きである、この感想を津村氏とコリンに伝え、SSAが実施できないと大変なので、何とかBancomにやらせられないか対策を練ることになった。
結局今日のところはこれで終わり、明日の朝各人が案を持ち寄ることになった。
コリンは英文を読むのが早いこともあり、MISの4社分すべて一通り読んだようである。
コメントを業者別にまとめ、津村氏作成の評価基準に沿って採点を行っていた。
津村氏はSSAをどうするかでパニック状態だったのではないか、私はBancomにもSSAのプロポーザルを出させる案で臨みたい。
ホテルへ戻り、夕食後の9時半から11時まで佐藤氏とNSDとしての案を協議した。
NSDで受けないかと佐藤氏に迫ったが、顔をたてに振ってくれない。
明日の対策会議がどうなるか、SSAコンポーネントはまた難局に突入した。

8月26日(水)

オフィスに出ると、早速対策会議の始まりである、津村、コリン、佐藤、本4人集まり、津村氏から2つの方向が示された。
1.SSAコンポーネントのPilotProjectを断念する、2.ローカルベンダーができないかアセスする。
対策2のために、宿題が与えられた。
ローカルベンダーに頼むにはPayment Calculationの最小限の機能に落とす必要がある。
佐藤氏がまとめてくれて日本語1ページ英語1ページができ、日本語は井坂氏に頼んで英語にした。
私はその間、業者との契約書案や添付資料に目を通した。
MISプロポーザルの採点表は作ったのかと質問されたが、作る必要があるのかと問い返した所、NSDの採点は免除となった。
午後、休暇中のタラセンコ氏がオフィスに来ているとの情報が入ったので、前回訪問したときバーベキュー招待の御礼を言わねば、と思っていたので、手みやげに、PCIよりレミーマルタンを1本譲ってもらって持参した。
津村氏はSSAのゴルブマネジャーを呼び出し会議を始めていた。
SSAプロポーザルが出なかったことに関する善後策の協議である。
提案書がまだ1通も来ていないこと、ABB社のものは提案書になっていないこと、Giveupするかもしれないこと、また、悲観的にならずに、ローカルベンダーにも声をかけてみることなどを話していた。
最後にゴルブ氏は好きなように進めれば良いと答えたようであった。
午後2時Bancom社の若いエンジニア2人が訪ねてきた。
彼らはPROGRESSの利点やシステム技術に強いことを強調している。
PROGRESSはRDBと4GLの機能を持っている。
私は直感的に彼らにPROGRESSでPaymentCalculationをやらせてみたいと思った。
態度は極めて謙虚で、MISの経験はない、電力の経験もないとはっきり認めており、却って私には好感が持てた。
津村氏はSSAコンポーネントについても同社の意見を聞きたいと頼み、明日の4時に再び来訪してくれることになった。
同社が明日までという短い時間でどれだけの理解をSSAについてしてくるか興味深い。
おそらく、理解を深めれば、MISよりも、SSAのほうがむしろやりたいと言い出すのではないだろうか。
彼らの技術力が発揮できる分野であること、電力業界に食い込めること、ウクライナ国の情報技術力をこのプロジェクトをとおして高めることができることなど、良いことずくめである。
但し、ゴルブ氏からRDBはORACLEにしてほしいと要望が出ている。
16時頃、ABB社の情報関連会社であるABB Forstar社の営業担当者が来訪した。
応対は津村氏とコリンで当たり、PCIの要望する方向で再度提案書作りに取り組んでほしい旨、頼んだ模様である。
17時にSoftrating社が訪ねてきた、社長と技術責任者の2人である。
Softrating社はSAPを担いで既に、電力業界で実績を積んでいる。
Bancom社と違って2人とも年配者である。
同社はウクライナ国の出資で作られた国策会社、Bancomは民間会社である。
2人の受け答えは無難でそつがないけれども、技術面での突っ込みがない、同社にはSE,プログラマはいないので、開発はベンダーを使うというからこの二人とは技術的な話はできないのである。
6時半に仕事が終わりPCIオフィス開業1周年記念パーティが始まった。
ローカルスタッフ3名参加,MRI神津、日本センターの佐藤所長も加わり、総勢10名が中華料理屋の東方飯店で会食した。
途中ローカルスタッフを代表してアナトリーが英語で祝辞を述べ、PCIに感謝の意を表していた。
それにしても今日の津村氏のリーダーシップは凄い、ゴルブ氏との話し合い、ABB社に文句をつける、1周年記念パーティを遂行する。
素晴らしい実行力であると感心した。
それに加えてBancom社を持ち上げている。
Bancom社が電力セクターに入り込むのは大変と思われる。
にもかかわらず、Softratingより、Bancomを買っているのである。
その点は私も全く同感、民営会社の若いチャレンジ精神や技術力を買いたいと思う。
津村氏にしても井坂氏にしてもしっかりした考えで仕事を進めている。
井坂氏も上司の判断がおかしいと思えば、はっきり自分の意見を言っている。
遠い海外の地で多くの困難に遭遇しながら、実質的にはこの2人でプロジェクトを推進しているのだ。
いよいよ、私の今回の現地作業、佐藤氏はまだ1週間残るが私は今週で帰国の途に就く。
佐藤氏には結果がどちらになろうともSSAプロジェクトが前進する方向で進めて欲しい旨、私の意志を伝えておきたい。

8月27日(木)

フルデイ働くのは今日が最後、明日の午後にはキエフを発つ。
オフィスで午前中、Bancom社へ提示するSSAの簡単な資料と質問事項を整理した。
9時から40分メガネをホテルに忘れてきたのを思い出し、車で往復、PCIに迷惑をかけて申し訳ない。
午後1時にMotMacdonald社と会談した。
同社は英国Knowhow Fundからの資金援助でNDC SSA の改善を支援するのだそうだ。
私の頭は混乱した。
津村氏からはPrice WaterhouseがSSAの改善に取り組んでいると聞いていたので、そのPrice Waterhouseの下請けでMM社が動いているものと思い込んでいた、ところが、全く別の SSA Databaseのプロトタイプ作りのプロジェクトらしい。
SSA部門は我々も含めて西側コンサルタントが別個にアプローチしており、対応が大変だと思う。
3ページの簡単な提案メモが提示された。
じっくり読むと、Scheduling &Dispatch Database という表題になっており、Bid Data やDispatch Schedule、 Dispatch後の変更分も含むとあるので、我々がPaymentCalculation部分をRDBとHLLで再構築する、直前の工程のデータベース化を提案している。
Spriknik氏にこのメモを提出してきたという。
PCIと共通のDBサーバを使用する予定だと記述されている。
私の困惑をみてか、津村氏は「この手の全く厄介な輩がいるので、我々も困る」という。
彼も資料を懸命に真面目に読んでいた。
もし、SSA部門がこの提案を受ければ、MM社との調整が必須となる。
さて、夕方4時ごろ約束通りBancom社が例の2人で訪ねてきた。
まずMISの費用見積のブレークダウンの話となった、PCI側はMIS のイメージを懸命に2人に分かるように説明していたが、PCIのチーム内でイメージが未だ統一されていないようだ。
MISパートが一段落し、SSAのテーマに移った。
Bancom側はRFPを充分読んでいないがSSAコンポーネントも受けたいと申し出た。
今週の土曜日曜も作業してプロポーザルを提出したいという、SSAが前進できるのでホッとした。
来週の火曜日に期限設定し、ORACLEをRDBの前提にする条件を指示し、提案書は骨子で良いとこちらも一歩譲歩した。

8月28日(金)

SSA Pilot Projectは実現するのかどうかも決まらないうちに、私の帰国日が来てしまった。
妻に頼まれたマトリョシカ人形は買えなかったが、Hetsmanのウオッカ2本も昨夜、佐藤氏に買ってきてもらってスーツケースに詰めた。
買い込んだ食料も殆ど消費して無駄になることもない。
11時30分PCIオフィスの仲間に別れを告げ、14時発のルフトハンザ航空でフランクフルトに着いた。
フランクフルトでの待ち時間は5時間、JALのビジネスラウンジでこれを書いている。
ラウンジには4時に着いた、その時は広いラウンジに客は私1人であった、夜8時50分発であるから、8時近くなった今、日本人客が続々やってきている。
キエフ空港の税関で厳しい検査を受けてしまった。
見送り兼運転手のドミトリと別れを告げ、出国審査に必要な書類を記入し、残余の現金も正しく数え、そのとうりに申告し、USD、日本円、グリブナ別に記入、申告した。
税関に何の不安も無かった。
パスポート、航空券、持参現金の申告書を提示し、検査を受けた。
今回の検査官はきびしそうにみえた。
財布の金を見せるように要求された、ポケットにいれている財布と、ショウルダーバックにいれている予備の財布も取り出してみせた。
申告どおりとなってOKで通過した。
現金を元通り財布に収め、最後の別れと思って見送りのドミトリにさよならをいい、握手して感謝の意を表して荷物検査に向かった。
安全検査も無事通過したところで先の検査官が近づいてきて、航空機に預ける大きな荷物は残して、こちらへ来いという指示である。
果たして何だろうといぶかったが、思い当たらないので、荷物を積むためのカートの場所を案内してくれるのかと思って従って行った。
ところが、案内されたところは誰もいない特別検査室。
一瞬、この男に金を巻き上げられるのではないかと不安がよぎった。
しかし、誰もいない部屋ではどうすることもできないし、逃げると却って疑われる。
検査官は口火を切った、「あなたは正直に現金所持金を申告したが、もう一度調べさせてくれ」、私は不正なことは何もないので、先ほどと同じように、両方の財布を出し、現金を取り出して渡した。
検査官は自らドル、円、グリブナそれぞれカウントした、更に貴金属や危険な物を持っていないかリュックの中など一通り調べた。
何も見つかるはずがない。
現金を手際良く抜き取ったかもしれないと疑った。
一応「行って良い」と許しが出て、私はリュックや財布を片付けにかかろうとした時に「疑ってすまなかった」といってくれたので、安心した。
彼は私に戻る方向を示して立ち去った。
私は現金を数え直し、所持品やリュックに詰めたものを一通り点検し、何もとられていないので、ほっとして荷物のところへ戻った。
約15分のロスタイム、私は疑われたなぞが解けない、不審なものを持っていることを疑われたのであれば、何故、スーツケースや段ボール箱の中まで調べないのだろう。
どうしても腑に落ちないので、懸命に何を疑われたのか振り返った。
税関検査を終えてドミトリと握手したのがいけなかったのだという結論に達した。
彼と握手したときに彼から何かを受け取ったのではないかと疑ったのである。
それが原因だとするとすべてが説明がつく。
キエフの出国審査は5回目であり、今回は一人旅なので、特に気を遣って有り金を数えて申告したのに、こういう目に遭おうとは皮肉なものである。
まあ、しかし、こうして安心してみると、良い経験をしたと思う。
時間の余裕も十分あったし、15分のロスはたいしたことではない。
税関域に入ってから外の人と握手するのがいけないのである。
今では冷静に反省している。
私の性格のおおらかさ、開放性の故、こんな失敗をよくやる、あるいは不注意の一言といってもよい。
いつも自分では反省するのだが、また別件で同じようなハラハラを繰り返すのだろう。
私はそういう人生を送るようになっているようだ。
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