第18回日韓IBM交流囲碁大会

第18回日韓IBM交流囲碁大会に初参加して

                        兵庫県加古川市  兵頭俊一


200710月下旬に実施された標記囲碁交流戦に、特別枠で参加させて戴き誠に有難うございました。感謝の気持ちをこめまして、深く感銘を受けたことや思い出などを綴ってみたいと思います。


  1. 参加のきっかけ

 IBM社員でなかった私が参加させて戴く事になったのは、728日から開催された“US Go Congress”に参加する為渡米した際のPaulさんとの会話がきっかけでした。 New York Cityで二泊した際、Paulさんが会長をされているNYGCNew York Go Center)へ立ち寄ったときのことでした。

10月にソウルでIBMの交流戦が開催されるので、よかったらあなたも参加しませんか?詳細は帰国後、“another Hyodo-san”と連絡取り合って下さい』との話であった。

 ※NYGCは、ご承知の方も多いと想いますが、世界中に四つある“岩本薫財団の基金で創設されている囲碁センター”の一つです。他の三つは、同じくアメリカのシアトル、オランダのアムステルダム及びブラジルのサンパウロにあります。同センターの総合管理は、日本棋院東京本院・海外事業部が行っているが、実務は現地囲碁センターの役員に委嘱されている。その理事長が今はPaul Andersonさんである。 尚、同センターへは、通常3ヶ月単位で日本からアマのインストラクターが派遣されており、2008年の4月~6月は、兵藤さんおよび高本さんが内定している由。 実は、小生も一昨年“碁歴書”を海外事業部へ提出しているが、まだお呼びがかからない。(08年後半には実現しそうな予感がしているところ)

8月に帰国するや否や兵藤さんに電話して、交流戦の概要を尋ねると、『詳細計画は目下立案中につき後日連絡、人数は15名程度、参加されることはOKーーー』との好意的なご回答を頂き、概要を説明して下さった。

 その概要をお聞きして、“参加したい“という願望と、”社員でない者が本当に割り込んでもよいのだろうか?という気持ちが葛藤しているところへ、数日後兵藤さんから旅程の案内が送信されてきた。 こうなると、もうブレーキは効かなくなってしまい、厚かましくも特別参加を決心し、『お願いしますーーー』と連絡したのだった。

  1. 11年振りの訪韓

 いよいよ出発の日がやってきた。

1026日午前1130分、京都市の浅田夫妻及び尼崎市の油谷さんと関空で合流した。

関空からソウルの仁川空港までは約2時間のフライト。 1530分ほぼ定刻に到着、空港でウォンに両替してから(因みに¥10,00077,400W)、リムジンバスに乗ってソウル市内のティファニーホテルへ向かう。 リムジンバスを推奨してくれた韓国IBMKimさんが、バス停まで出迎え、ホテルへ案内して下さったので、550分に無事到着できた。

 今回のソウル訪問のもう一つの楽しみは二人の碁友と面談することであった。一人は、韓国棋院所属棋士・千八段(Poong-Jho Chun)、もう一人は、アマの囲碁研究家・金7段(Dal-soo Kim)。千八段は、十数年前にUS Go Congressの会場で知り合って以來交流を続けており、19964月には彼の招きで関西の碁友3名と共に『ソウル囲碁と観光の旅』を実施した。千八段は韓国棋院の中ではベテラン棋士のため、各方面との渉外業務を担当されており、英語が話せるからヨーロッパやアメリカの碁コングレスへ約20年間派遣されている。 日本へも度々来訪され、棋士交流問題について議論されたこともある。 但し、関西棋院とはコネがないとの事で、不肖私めが、橋本九段他数名の理事(棋士)を紹介して面談のお膳立てをさせてもらった。

 金さんは、一昨年のUS Go Congressの会場で初めて面談したばかりなので、長い付き合いではないが、最近彼が没頭している“囲碁の歴史の研究”に関して意気投合し、気持ちの上では十数年来の友人のような親密感が湧いている。資料集めに度々訪日されるので、東京や大阪で何度か会食した間柄である。子供の頃は専門棋士を目差していた由で、碁の腕前は7段。日本語がご堪能なのが何よりも嬉しい。

 今回の交流戦のソウル滞在は極めて短い為、26日夕方の自由時間にしか面会できるチャンスがないと考え、このお二人には前もって26日の午後6時にホテルヘ来て下さる様に連絡しておいた。

 成田からの本隊も大連経由の牛島さんも『ホテル到着がかなり遅れる』との電話情報が入ったので、関西組4名は千さん金さんの案内で夕食に出かけた。 ホテルからかれこれ20分ほど歩いて、韓国の代表的な料理が揃っている小奇麗なレストランへ着いた。メニュウを見せられてもよく判らないので、日本人のことをよく知っておられる金さんにお任せした。 名前は忘れたがおいしい料理と韓国のお酒に我々日本人は満足した。 その上、食事代を金さんが全部払ってくれる羽目になった。082月に“研究発表会”のため大阪へ来られる予定なので、そのときにお返ししたいと思っている。

 その夜11時頃に日本側の参加者全員が勢揃いしての顔見世・打合会が、ホテル一階のMeeting Roomで行なわれ、翌日の対抗戦での健闘を誓い合った。

  1. 囲碁対抗戦

 1027日(土)、いよいよ旅の本命『第18回日韓IBM囲碁対抗戦』が行なわれた。ホテルから大分歩いた食堂(?)で、おいしい『ドジョウ汁朝食』を食べた後、地下鉄でIBMKoreaのオフィスビルへ9時半ごろ到着。 ゆったりした特設対局場で、A,B両クラスに分かれての対局が開始された。

 小生は、5段以上の日本人6名と韓国人4名が属するAクラスに6段でエントリーされた。公式戦の対局数は4局を原則とし、なるべく“日韓戦”となるように組み合わされた。

 尚、アマの段位については、日本と韓国とはRating System(棋力のレベル)が全く異なるので調整が必要であるが、IBMの日韓戦では過去の実績に基づき『韓国人の棋力表示は日本の棋力レベルに合わせてある(調整してある)』と兵藤世話人から説明を受けた。

 ※96年のソウル訪問時には、日本の5段として相手を選んでもらったが、韓国の初段か2段の少年に捻られた苦い経験がある。 同輩の初段氏も5級の女の子に惨敗して腐っていた。


 さて、今回の一局目の相手は、Jong Lee6段で小生の先番。 序盤は得意の“両高目”でスタート。 Leeさんは8で早くも黒陣へ打ち込んでこられ、以下34で一段落するまで戦いの連続であった。 更に、35から新たな戦いが勃発し86まで一気に進行した。 とにかくLeeさんの碁は、ちょっとでも隙があるとすぐに突いてこられるので、ひと時も気が抜けない。

やや小康状態があった後、99から中元一帯でねじり合いが発生し双方の石が切れ切れになった。Leeさんはここぞとばかりにおいらの石を取りに来られたが、我慢を重ねて手数を伸ばし、145手目、弱点を咎めて白の種石を取ることに成功し、長い長い戦いに決着がついた。

これで“片目は明いた”とほっとした。

第2局は、最強豪のJin ho Jang8段との対戦。

“2子局”をうまく打つのは白も黒も大変難しいと言われている。序盤で一手間違うと、“先の碁”になったり“3子の碁”になったりするからである。

12の左上カカリまでは、お互いに相手の技量を探りあいながらも、“立て板に水”のごとくスラスラと進行した。

 13でJangさんは黒模様の中の弱い石を動いて来られた。これによりこの碁の骨格(全局的な争点)が決まってきた。 即ち、黒は『この弱い白を脅しながら、何処で何を儲けるのか?を工夫し』、白は逆に『この白をなるべくうまく処置する(生きる根拠を持つか、早逃げする)ことに腐心する』事となる。 この方針で進行の途中、白は29で右辺の白地を拡大する手段を採られた。 しからばと黒は30から上辺の白を脅しながら中央方面へ連れ立って飛びだし、一歩先んじて“制空権”を奪うことに成功し優位に立つことができた。 そのまま180まで進んで終局したが、白が13手目で黒の縄張り内の弱い石を動いた“つけ”が最後まで祟った結果になった。 終盤黒にミスが出て細かくはなったが2勝目を上げることができた。

 ※前夜面談した韓国棋院の千八段が、対局会場に顔を出して下さった。韓国IBMのメンバーの中には、千八段の名前を知っている方がおられたが、顔を見るのは初めての方が殆どだった。今後、K-IBMと八段の間に好関係ができることを期待している。

 

八段と共においしい弁当を食べた後の第3局目は、Tae Bong Yan 6と当たり、小生が白番となった。 黒は1,3の二連星、こちらは得意の“両高目”でのスタート。

布石の眼目は『如何にして自分の縄張り内へ相手を先に打ち込ませるか?』であるから、とにかく大きな模様を張るために高目を多用することにしている。

Yanさんは、5で2の高目の中へ、また13で4の高目の中へ入って下さったので、作戦の第一段階は白の成功だと思った。 以下、第一ラウンドの戦いに突入したが、元々白の縄張り内での戦いなれば白が悪くなるはずもなく、28までの戦いで、黒には『6子の眼のない石』が左辺下方に誕生した。

 左下から下辺にかけての53までの第二ラウンドの戦いにおいて、黒にはまた弱い石が下辺にできたので、白は“カラミ攻め戦法”でぐいぐい攻めることができた。かくして、左辺一帯の黒の一団を逮捕する事に成功し3勝目をあげることができた。


 第4局目は、Jong Jin Choi 6段戦で、こちらの白番。

白の出だしは、例の“両高目”(2は16の五、4は15の十六)である。 黒さんが入ってきてくれるのを心待ちにする戦法だ。 これに殺気を感じられたのか?Choiさんは左辺で、星と一間ジマリの組み合わせを打たれたので、白は已む無く左辺へ“ワリウチ”せざるを得なくなった。

黒7の詰めに対して白がちょっとした意地を張ったため、のっぴきならない戦いが勃発し、9から延々と戦いが続くこととなった。テーブルの周囲には56名のギャラリーが取り囲み、勝敗の行方を見守っておられた。 100手でようやく戦いが段落し、右辺の白の縄張りにはどちらも手を触れることなく碁は終わってしまった。黒の大石が頓死したからだ。


 かくして公式戦は、幸運にも4連勝することができ、日韓通算成績19勝16敗の勝ち越しに貢献することができたのだった。 その上、“Aクラス優勝”の栄冠を得られたのは望外の喜びであった。

 11年振りで再訪した韓国の碁がどんなものであるか興味を持っていたが、今回対局した4局を見た限りでは、11年前と殆ど変わっていないと想われた。日本の碁に比べると『韓国の碁は、“戦いの連続“に明け暮れるので、ひと時も気が抜けない』ところも昔と変わっていなかった。読みの正確さも要求される。 

但し、戦略的には『隙を突いてくるーー』点を利用して、いわゆる、“誘いの隙”を仕掛けて全局的な得を計ることは可能だと想われた。(この点については、上記の対戦の中でテスト済みである)

  1. 済州島観光

 1128日(日)、ソウルから済州島へ移動した。 国内線用の空港・金浦空港までは地下鉄を利用した。途中、約40の駅があり、所要時間は1時間40分。予想以上に所要時間がかかったので、金浦空港駅の長い地下道は小走りでCheck-inカウンターへ急がねばならなかった。済州島までの飛行時間は1時間ちょっとだったので、用意していた携帯碁盤を機内で使う時間がなかった。

九州の佐賀県の西に位置する済州島はとても温暖で、空港のバス乗り場で受けた風は生温く感じられた。専用バスで宿泊所まで約30分の距離。韓国IBMにより手配されていたコンドミニアムタイプの宿泊所は、規模が大きくロビーも一流ホテルのようにゆったりしていたが、驚くほどの格安料金という。 少し遅れて韓国組みも到着し、今回の済州島ツアー参加メンバー(日本人14名と韓国人5名)が全員揃った。


 済州島訪問が初めての小生は、日本を出発する前に少しばかりガイドブックを見た。碁友の中の訪問経験者から話も聞いた。 しかしそれぞれの情報はまちまちで、頭が混乱するばかり。 ただ一つだけ興味を引いたのは、『島の中央にある有名な山へハイキングすること』だった。 兵藤さんと韓国IBM並びに山に感心のある日本IBMの有志とのMailによる下打ち合わせを傍受しながら、できればおいらも参加したいものだと思う様になっていた。

 参加の気持ちは旺盛なれど体が言うことを聞いてくれるか些か心配している小生の気持ちを、更にたじろがせる暗雲が立ち込めてきた。 Mailのやり取りを見ていた布石段階では、“ハイキング”という表現であったが、中盤の後半辺りから“登山”という言葉が出てきたからである。 “ハイキング“なら、比較的緩やかな道を、せいぜい往復2時間か3時間、鼻歌交じりで歩けばよいだろうと想っていたが、”登山“となれば話は別だ。1010日ごろ、Mail交信のヨセ段階になると、

 東京の佐藤さんという方から、

「参加したいです。 私は単独で登るつもりでいましたので、ルート等調べているのですが、多分朝6時ごろ、バスセンター始発のバスに乗り、40分程で城板へ到着します。歩き始めの高度は、標高800mあたりからです。最高峰は1950mあります。往復で20Km、所要8時間とありますが、健脚者のスケジュールだと思います」』との情報提供があり、

また、やはり東京の木谷さんという方から、

「韓国の最高峰、漢拏山(ハンラ山、1950m)のハイキング、是非参加したいです」との参加表明があり、『すごい人たちがいるもんだなあーー』と感心したのだっだ。

 感心しているだけではダメなので、兵藤さんへの意思表示として;

『参加したい気持ちはあるが、ハイキングと言うより登山のようなので、最終的には体調と天候を考慮して、28日に現地で決定させて欲しい』という趣旨のMail1012日送信したのだった。

そして、翌1013日運動靴を買ってきてトレーニングを始めた。家内と隣の奥さんが毎晩続けている散歩(午後8時から、往復3kmの散歩専用道を約35分かけて歩く)に“ご一緒させてもらう”ことにしたのだ。平坦地で往復3kmの短距離では、ハンラ山登山用の訓練には不十分だが、何がしかの心の支えと新しい運動靴の履き慣らしを兼ねて、1013日から25日まで、毎日欠かさず歩き続けた。


さて、1028日の昼食後、コンドミニアムでは『Go Game in JEJU』がスタートした。主対局場の部屋では携帯碁盤が彼方此方に並べられ、日韓のメンバーが入り混じっての熱戦が繰り広げられた。二つのテーブル上に4面、床に2面、Bedの上に1面ーーー。

夕食は市内の高級レストランへ出かけた。約2時間かけてのゆったりした食事が中盤を過ぎた頃、翌日の登山希望者の確認が始まった。案内役のKahngさん、東京の佐藤さんと木谷さんの3名は予定通りすんなり決定。 その他の数名は顔を見合わせて探りあい状態。 迷っていた小生は、意を決して『連れて行って下さい』と言ってしまった。他には韓国の Jang8段が8割がた参加しそうな口振りだった。


10月29日、運命の登山当日。登山口まで移動する為のタクシーが午前7時に宿舎へ来るとのことで、佐藤、木谷、兵頭の日本・三銃士は6時50分に1階のロビーへ集合した。空を見上げると真っ黒の雲が覆いつくし、まずいことに小雨が降っていた。出遅れのKahngさんがこられるまでの待ち時間に、フロントマンに天気予報を尋ねたところ、『ハンラ山の方は雨は降らない』とのこと。しかし、現に目の前では小雨が降っており、平地が晴れていても悪天候に見舞われがちの山上が大丈夫とはどうしても信じ難いことだった。

7時を10分ほど過ぎてKahngさんがロビーへ。3時頃まで碁を打っていたため起き難かったそうだ。対局に付き合っていたJangさんは結局登山を断念された由。

かくして、われら四銃士は登山口(山の東側に位置している城板岳休憩所)へ向かった。休憩所で朝食を採り、水やおやつを買ってから、午前8時丁度に海抜750m地点である登山道に足を踏み入れた。雨はすっかり止んでいた。

登山道の入り口にある管理人室で簡単な山の地図を貰う。この城板ルートは頂上まで9.6kmと書いてあった。 国立公園への入場料金表があったが、外国人は無料とのこと。

道は、すぐに潅木の林の中へ入っていった。勾配は緩やかで足場もよく、出だしのコンディションは上々だった。これなら皆さんに追随して行けるかもーーと少し安堵したが、しばらくすると、道には枕前後の大きさの花崗岩の塊がごろごろしていてとても歩き難くなってきた。 両側には大小の落葉樹がびっしり詰まっていて外部は一切見えず、滑らないように足元を見つめて、ただ黙々と歩く状態が30分以上続いた。

 沈みがちな気持ちを慰めてくれたものは、道の左右にぽつりポツリと姿を現す、黄色や紅色に色づいた比較的背の低い木々であった。 また、250m毎に立っている01,02、---と通し番号を書いた1メートルぐらいの標識(5Cmの角柱)も、一歩一歩進んでいることの証しとして勇気付けに役立った。 かれこれ1時間が経った頃、熊笹の中に建っている『海抜1,000m』の石碑を見つけ、記念撮影を兼ねて小休止を取った。

道は、階段あり、板道あり、ごろごろ道あり、勾配も緩急の変化に富み、退屈することはなかった。2時間ほど経ったころ、沙羅岳薬水という水飲み場へ到着した。樋から勢いよく流れ出ている水は、気のせいかペットボトルの水より美味しかった。数名づつの他のパーティもそれぞれに休憩して楽しそうに飲食していた。 Kahngさん、木谷さん、佐藤さんは約10分間休憩するとのことなので、小生は一足先に水場を出発させてもらうことにした。(皆さんの足を引っ張っては申し訳ないので、時間的なハンディを貰って先発することにーーー)。

           

 この頃から、木立の間から陽の光が見えるようになってきた。宿所のフロントマンの言葉『山の方は大丈夫ですーー』が思いだされ、彼の発言を疑ったことを恥じた。

 道は本格的な登山道になり、勾配のきついところが目だってきた。但し、両側を熊笹で挟まれた緩やかな道も混ざっており、心臓への負担が軽減されたのは有り難かった。3人が何時追いついてこられるか気にかけながら、30秒以内の超小休止を頻繁に取りつつ、一人で黙々と歩んだ。

 水場から40分ぐらい過ぎたとき、後発の3人が追いついてこられた。道幅が狭く勾配がきつい難所の途中だった。 それから20分ほど過ぎると、道の両側の樹木がなくなり、急に視界が広がった。立ち止まって振り返ると、小高い山の向うに分厚い雲があり、その隙間から海が見えた。お山は青空が見えてぽかぽか陽気であるが、下界はどんより曇っているように見えた。

 やがて、前方右側に建物の屋根が見えてきた。チンダルレバッ避難所だ。“チンダル”というのは“山つつじ”のことで、その群生地が“チンダルレバッ”だと教えられた。 そういえば、前夜夕食を食べたレストランの壁一面に電飾されていた、満開のつつじ群生地の写真に、“ハンラ山”と書かれていたことを思い出した。

登山口からこの避難所までの距離は7.3km。碁で言えば“中盤戦”が終わったところ。時刻は11時20分だから3時間20分を要したことになる。ここで本格的な休憩を採ることになった。 Kahngさんが、バナナやリンゴを配ってくれた。この避難所には国立公園の監視人が常駐しているというが、見当たらない。売店でホットコーヒーを買い求めた。売店と言ってもコーヒーの他は、インスタント麺と何種類かのキーホルダーがあるだけ。中央の大きな建物は改装工事中で、ブルーシートが彼方此方に張ってあった。

腹ごしらえとトイレを済ませ、1145に避難所を出発。標識によれば頂上までは2.3kmだ。いわゆる“大ヨセ”段階に入った。 つつじや熊笹以上の背丈の植物は殆どない上に上天気になったので、視界を遮るものは何もない。

はるか南方の雲の彼方を眺めながら、『観光バスの皆さんはどうしているのだろうーー、下界は曇っているのでは? 風も強そうだーー』などと本隊を気遣う余裕さえ出てきた。

 道の勾配も緩やかで、時には下り坂もあってスピードがアップし、『これならおいらも頂上まで到達できそうだ、途中で脱落せずに済みそうだ---』と、内心安堵したのだった。 しかし、それが甘い考えだとすぐに判った。海抜1,800mぐらいから、急に勾配がきつくなってきた。山頂と思われる方を見上げると、蛇行した白っぽい軌道がくっきりと見えた。つまり最後の数百メートルは、勾配がきついので角材を使って階段が作られていたのだ。滑りやすい砂利道よりは階段の方が有難いが、それも程度もの。100や150段なら問題ないが、おそらく1000段はあったであろう。最後の300mぐらいになると、4人の歩調の格差が顕著になってきた。一番余裕があるKahngさんにはお一人で先に登ってもらうことにした。二分ほど遅れて木谷さんが頂上を目指された。佐藤さんと小生は、“小ヨセ”では30段ぐらい進むと30秒の小休止の繰り返し。『ここまで来たら、もう、山(頂上)は逃げやせんやろーーー』と居直りの心境。最後、“半劫を争う”段階になると、20段毎に立ち止まったり、階段に腰を下ろす始末。

 

しかし、しかしです。とうとうやりました。ついに頂上へ到達したのだ。

NHK番組の『そのとき歴史は動いた』風に表現すれば、そのときとは、『20071029日の1252分』であった。

先に登頂の二人が笑顔で迎えて下さり4人で悪手否握手を交わす。頂上を示すトーテンポールに似た標識の前で記念撮影。実は、この地点(外輪山の東端)は本当の頂上ではなく1,900mの地点だという。1,950mの地点は外輪山をもう少し西南へ進んだところであるが、危険なので通行を禁止され、平坦地が多いこの地点を“暫定頂上”とされているのだった。

 登山者数は、ざっと一望しただけで100名くらい。三々五々に好みの場所に腰を下ろして飲食中である。我々も、板を敷き詰めた一畳ぐらいの場所を見つけて弁当を食べることにした。

公園の監視人が『登山者は全員、午後2時までにここを離れて下山して下さーーい』

と注意を呼びかけてきた。麓の登山口までの所要時間を計算すれば、今の季節は午後2時が下山開始のリミットなのだそうだ。

 そこで我々は、急いで“メインイベント”に取り掛かることにした。『ハンラ山頂での囲碁対局』だ。背負って行った携帯碁盤を平らな板道に置いて、4人でペア碁を打つことにした。佐藤さんは「長らく打っていないし、私は級位者なので辞退したい」とおっしゃったが、「記念すべき対局なので是非打って欲しい」と要請し対局が実現した次第。

 Kahngさんと木谷さんのペアが白、佐藤さんとおいらのペアが黒番でスタート。

時間を気にしながら、布石から中盤に突入したところで、証拠(記念の)写真を撮影。数名のギャラリーが珍しそうに覗き込む。局面は一つの隅で始まった戦いが中央に波及し、複雑な様相を呈してきた。こうなってくると、棋力の劣る相棒を持つペアが劣勢になることが多いので内心心配していたが、佐藤さんの着手は、卑下されていた割には大きなミスもなくお見事でした。

凡そ70手ぐらい進んだところで1時50分になったので、“打ちかけ”にすることとなった。Kahngさんとおいらが簡単に現状分析と感想を述べ、『○●がやや優勢かな?』ということで、記念すべき『ハンラ山頂対局』は無事終了した。この対局を祝福するかの様に、山頂の天候は日本晴れ否“ハンラ晴れ”だった。


下山ルートは、山の北側の“観音寺コース”を採ることになった。標識には8.7kmと書いてあった。下りなので5時半ごろには着けるだろうと、鼻歌交じりで帰途につく。 はじめの600700mは階段状の板道が整備されていて快適だった。  左後方を見ると、高さも幅も数百米の断崖絶壁が見えた。外輪山の北壁の外側である。視野を遮る背丈の高い樹木はなく、紅葉も見ごろで周囲の景色は抜群。こちらのコースを選んでよかったですねーー」などとおしゃべりしていると、天の方から『それは甘い甘いーー』と声が聞こえて来たような気がした。

その意味は、30分ほどして判ってきた。 道の幅が狭くなり勾配も急傾斜になってきたのだ。大小の岩が行く手を阻もうと彼方此方に邪魔立てしている。瘤のついたロープを頼りにそろりそろりと下る他はない。

3時半頃、龍鎮閣避難所へ到着し、“トイレ休憩”。監視人の青年が出てきてKahngさんと言葉を交わしていた。

そこから先は、耽羅渓谷に沿って延々と歩を進めることになった。 勾配は緩いが、途中で5~6メートル幅の谷川を何度も渡らねばならなかった。『道なき道』であった。

突然、本隊から電話がかかってきた。 曰く「ーー(本隊の)昼食が遅くなったので、夕食の開始時刻を8時頃にしたいが如何?」 本隊の世話人さんは、我々登山隊が『5時頃には下山するであろうから、夕食まで大幅に待たせることになるのではないか?』と懸念されて、ご親切な電話を下さったに違いない。 登山隊の返事「はい、それで結構でございます。はい、承知しました」  

しかしその頃お山ではーーー。5時半ごろには登山口へ着けるだろうとの推測は大きく狂いそうな雰囲気になっていた。例の250m毎の標識の番号から、簡単な引き算と掛け算により、残りの距離がまだかなり大きいことがわかったからだ。誰からともなく、「この辺の日没時刻は何時だろう?」とか、「懐中電灯なんか持っていませんよ」との呟きがもれ始めた。

とにかく、ひたすら歩く他はない。日本人3人の歩調が遅れだしたことにKahngさんがいらいらしていることが判った。後3km弱になったとき、彼に申し出た。「先に行って、タクシーの確認をお願いします」と。

午後6時になるとかなり薄暗くなってきた。道の勾配は緩いが、例の枕大の石が所構わず飛び出しており、落ち葉も湿っていて滑りやすい。とにかくスピードを上げ難いのだ。

 いよいよ視界が悪くなった。先頭に立ったおいらは道先案内。「中央に大きな石あり、右側のロープ伝いにーー」「右側に大きな水溜りあり、左側へよってーーー。 そのまま、そのままーー」「後500mほどです。頑張りましょう」

100mぐらい先にぼんやりと薄明かりが見えてきた。 きっと目的地だろう。誰かが叫んだ。「翼よ、あれがパリの灯だーー」ーーーライト兄弟の初飛行をテーマにした古い映画からの引用だ。 すると、いきなりライトに照らされた。心配したKahngさんが休憩所で懐中電池を借りて迎えに来てくれるところだったのた。

かくして、四銃士は無事に下山できたのだった。それは『200710291825分』のことだった。 万一の場合は途中から引き返すことも念頭に入れていたが、皆さんのお陰で何とか最後まで歩けたことに“感謝感激“だった。

タクシーで宿舎へ帰った時は7時になっており、本隊は勿論帰っていて、一局終わった人もあった。

8時ごろバスに乗って市内のレストランへ行くことになったが、疲れ気味の佐藤さんとおいらは宿舎のレストランで夕食を済ませることにした。

以上の通り、今回の“日韓IBM囲碁交流戦”に伴う韓国の旅は、私にとっても大変実りあるものとなりました。 このような素晴らしい機会を与えて下さっ日韓両国のIBMの皆様に心から感謝申し上げます。

 

次回の第19回交流行事は、京都で開催される予定なので、もし許されるなら、関西在住者として精一杯のお手伝いをさせてもらいたいと願っています。

               ーー以上ーー

参考)高本さんの韓国道中記2008

参考)「Photo of Mt. Halla(ハルラ山の写真) 提供:佐藤 元 氏」

参考)兵頭さんの「囲碁理論の基本」